舟にきた。彭の舟はやがて網舟を離れたが、再び漁師に獲られる危険のない所へくると蟹を水の中に入れてやった。蟹は大きな鋏を前で合わせて人が拱揖《れい》をするような容《さま》をして沈んでいった。…………
「さあどうか、おあがりくだされ」
判官が強《し》いて言うので彭は安心してあがった。
「姪《めい》の室に人がきているというので、貴君とは知らずに大変無礼をいたした。時に貴君は何方《どちら》の生れです」
「私は南昌の者で彭徳孚と申します」
「貴君は許婚《いいなずけ》の人でもありますか」
「ありません」
「では、良縁だ、私の姪と結婚して貰いたい」
彭はもとより望むところであった。その席には保姆もいた。判官は保姆に言いつけた。
「あれを呼んでこい」
保姆は公主を連れて入ってきた。女は恥かしそうにして顔をあげなかった。判官の夫人も其所へ入ってきた。
「この方が、わしの恩人じゃ、あれをお願いすることにした」
彭は女と結婚の式をあげて水晶館にいることになった。彭は琴が上手であった。彭が琴を弾《ひ》くと女はいつも傍で歌った。二人はこうした夢のような日を一年ばかり送ったが、その翌年の春、西湖の年中行事の一つになっている水遊びの日がきた。その日、西湖では舟の競争があるので、その見物をかたがけて遊びにくるものが多かった。彭も舟で女を連れて出かけて行った。
風のない暖かな日であった。前からそろそろと漕いできた一艘の舟があったが、その舟の中から声をかける者があった。
「彭君じゃないか」
彭は聞き覚えのある声を聞いて顔をあげた。それは銭塘の友人であった。
「やあ」
「君は、いったい何所を歩いてるのだ、君の家から手紙がきたから、僕はこの間中、君の居所を捜していたのだよ」
その時、舟と舟の小縁《こべり》がくっつくようになって、彭と友人とは手を握れそうになった。
「それはすまなかったね」
「では手紙を渡すよ」
友人は手にしていた手紙を此方の舟の中へ投げ込んだ。
「ありがとう」
「では明日にでもまた逢おう、やってきたまえ」
「ああ、行くよ」
舟は見る間に行き過ぎてしまった。彭は急いで手紙を開けて見た。それは母親の病気を知らしてきたものであった。
「母が病気だ」
彭は母の病気が心配になってきたが、しかし、女と離れるのが苦しいので困って考え込んだ。
「お母さんが御病気なら、お帰りにならなくちゃいけません、私もごいっしょにまいります」
二人は其所から引返して判官の前へ行った。判官は女の体が弱いと言って、いっしょに行くことを許さなかった。
「これは体が弱いから遠くへは行けない、しかし、お母さんの病気は、もう好くなっているから心配はないが、貴君は子として一度は帰ってくるがいいだろう」
判官は一粒の丸薬を出して彭に渡した。
「帰ったらこれをお母さんに飲ますがよい、これを飲むと決して年を取らない」
彭は一人で帰ることにして女に言った。
「秋にはきっと帰ってくる」
すると女は涙を見せて言った。
「この二三ヶ月、お腹の具合が変でございます、どうか忘れずにいてください」
彭はその日出発して故郷へ帰ったが、帰ってみると母の病気は癒っていた。彭は母を連れて銭塘の方へこようとしたが、母が遠くへ出るのを嫌うので、一人で引返して聖慶寺《せいけいじ》に寄り、翌日水仙廟の後ろへ帰って行った。
簷を並べていた楼閣は影もなくなって榛莽《しんぼう》が一めんに繁っていた。彭はもし方角が違ったのではないかと思って、その辺を捜してまわったが、他にそれらしい建物も見えなかった。
そのうちに日が暮れかけた。彭はしかたなしに西冷橋《せいれいきょう》まで帰ってきた。橋を渡ろうとしてふと見ると、東の方から見覚えのあるかの女がきた。
「貴郎」
「お前か」
二人は手を取り合った。
「家がなくなっているが、どうしたのだ」
「家が焼けたものですから、雷峰塔の下へ移りました」
「そうか、ちっとも知らなかった」
二人は其所から舟を雇うて雷峰塔の下へ行った。雷峰塔の下には楼閣が簷を並べていた。
「此所ですよ」
二人は舟をあがって行った。朱の柱をした綺麗な室が二人を待っていた。女は迎えに出てきた婢《じょちゅう》に言いつけて酒の準備《したく》をさした。女はすこし離れている間に濃艶な女になっていて、元のようなおどおどした可憐な姿はなかった。女はまだ御馳走が終らないのに彭を連れて寝室へ入って行った。
女は彭に絡まりついて離れなかった。それがために彭は翌日体が起たなかった。女はすこしも傍を離れないで介抱をした。彭はそれが非常に厭《いと》わしかったがどうすることもできなかった。
たちまち帷をはねあげて入ってきた者があった。彭は驚いて重い眼を開けた。それは自分の傍にいる女とすこしも変らない女であった。入って
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