と言ったよ、湖西に婢《じょちゅう》と二人で暮してると言うのだ、そうかなあ」
「そうとも、邪鬼だよ、わしがこんなに言っても、ほんとうと思えないなら、湖西へ行って調べてみるがいいじゃないか、きっとそんな者はいないよ」
「そうかなあ、たしかに麗卿と言ってたが、じゃ行って調べてみようか」

 その日喬生は月湖の西縁《にしべり》へ行った。湖西の人家は湖に沿うて彼方此方に点在していた。湖の水は微陽《うすび》の射した空の下に青どろんで見えた。そこには湖の中へ通じた長い堤もあった。堤には太鼓橋になった石橋が処どころに架《かか》って、裸木の柳の枝が寒そうに垂れていた。
 喬生は湖縁を行ったり、堤の上を行ったりして、符姓の家を訊いてまわった。
「このあたりに、符という姓の家はないでしょうか」
「さあ、符、符といいますか、そんな家は聞きませんね」
「若い女と婢の二人暮しだということですが」
「若い女と婢の二人暮し、そんな家はないようですね」
 何人に訊いても同じような返辞であった。そのうちに夕方になって湖の面がねずみがかってきた。喬生はいくら訊いても女の家が判らないので、老人の言葉を信ずるようになってきた。彼は無駄骨を折るのが馬鹿馬鹿しくなったので、湖の中の堤を通って帰ってきた。
 湖心寺という寺が堤に沿うて湖の中にあった。古い大きな寺で眺望が好いので遊覧する者が多かった。喬生もそこでひと休みするつもりで寺の中へ行った。
 もう夕方のせいでもあろう、遊覧の客もいなかった。喬生は腰をおろす処はないかと思って、本堂の東側になった廻廊へあがって行った。朱塗の大きな柱が並木のように並んでいた。彼は東側の廻廊から西側の廻廊へ廻ってみた。その西側の廻廊の行き詰めにうす暗い陰気な室《へや》の入口があった。彼は好奇《ものずき》にその中をのぞいてみた。そこには一個《ひとつ》の棺桶が置いてあったが、その上に紙を貼って太い文字を書いてあった。それは「故奉化符州判女麗卿之柩《こほうかふしゅうはんのじょれいきょうのひつぎ》」と書いたものであった。喬生は眼を瞠《みは》った。棺桶の前には牡丹の花の飾をした牡丹燈が懸けてあった。彼はぶるぶると顫えながら、牡丹燈の下の方へ眼を落した。そこには小さな藁人形が置いてあって、その背の貼紙に「金蓮」と書いてあった。
 喬生は夢中になって逃げ走った。そして、やっと自分の家の門口まで
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