愛卿伝
田中貢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)胡元《こげん》

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(例)一|輪《りん》

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(例)※[#「りっしんべん+(「甍」の「瓦」に代えて「目」)」、第4水準2−12−81]学無識《ぼうがくむしき》
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 胡元《こげん》の社稷《しゃしょく》が傾きかけて、これから明が勃興しようとしている頃のことであった。嘉興《かこう》に羅愛愛《らあいあい》という娼婦があったが、容貌も美しければ、歌舞音曲の芸能も優れ、詩詞はもっとも得意とするところで、その佳篇麗什《かへんれいじゅう》は、四方に伝播せられたので、皆から愛し敬《うやま》われて愛卿と呼ばれていた。それは芙蓉《ふよう》の花のように美しい中にも、清楚な趣のあった女のように思われる。風流の士は愛卿のことを聞いて、我も我もと身のまわりを飾って狎《な》れなずもうとしたが、※[#「りっしんべん+(「甍」の「瓦」に代えて「目」)」、第4水準2−12−81]学無識《ぼうがくむしき》の徒は、とても自分達の相手になってくれる女でないと思って、今更ながら己れの愚しさを悟るという有様であった。
 ある年のこと、それは夏の十六日の夜のことであった。県中の名士が鴛湖《えんこ》の中にある凌虚閣《りょうきょかく》へ集まって、涼を取りながら詩酒の宴を催した。空には赤い銅盤のような月が出ていた。愛卿もその席へ呼ばれて、皆といっしょに筆を執ったがまたたくまに四首の詩が出来た。
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画閣《がかく》東頭《とうとう》涼を納《い》る
紅蓮《こうれん》は白蓮《はくれん》の香《かぐわ》しきに似《し》かず
一|輪《りん》の明月《めいげつ》天水《てんみず》の如し
何《いず》れの処《ところ》か簫《しょう》を吹いて鳳凰《ほうおう》を引く

月は天辺《てんぺん》に出でて水は湖に在り
微瀾《びらん》倒《さかしま》に浸す玉浮図《ぎょくふと》
簾《すだれ》を掀《あ》げて姐娥《そが》と共に語らんと欲す
肯《あえ》て霓裳《げいしょう》一|曲《きょく》を数えんや無《いな》や

手に弄《ろう》す双頭《そうとう》茉莉《まつり》の枝
曲終って覚えず鬢雲《びんうん》の欹《かたむ》くことを
珮環《はいかん》響く処|飛仙《ひせん》過ぐ
願わくは青鸞《せいらん》一隻を借りて騎《の》らんことを

曲々たる欄干《らんかん》正々たる屏《へい》
六|銖《しゅ》衣《ころも》薄くして来り凭《よ》るに懶《ものう》し
夜更けて風露《ふうろ》涼しきこと如許《いくばく》ぞ
身《み》は在り瑶台《ようだい》の第一層に
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 愛卿の詩を見ると、もう何人《たれ》も筆を持つ者がなかった。
 趙という富豪の才子があって、父親が亡くなったので母親と二人で暮していたが、愛卿の才色を慕うのあまり、聘物《へいもつ》を惜まずに迎えて夫人とした。
 趙家の人となった愛卿は、身のとりまわしから言葉の端に至るまで、注意に注意を払い、気骨の折れる豪家の家事を遺憾《いかん》なしに切りもりしたので、趙は可愛がったうえに非常に重んじて、その一言半句も聞き流しにはしなかった。
 趙の父親の一族で、吏部尚書《りぶしょうしょ》となった者があって、それが大都から一封の書を送ってきたが、それには江南で一官職を授けるから上京せよと言ってあった。功名心の盛んな趙は、すぐ上京したいと思ったが、年取った母親のことも気になれば、愛卿を遺して往くことはなおさら気になるので、躊躇していた。
 愛卿は趙のそうした顔色を見て言った。
「私が聞いておりますのに、男の子の生れた時は、桑の弧《ゆみ》と蓬《よもぎ》の矢をこしらえて、それで天地四方を射ると申します、これは将来、男が身を立て、名を揚げて、父母を顕わすようにと祝福するためであります、恩愛の情にひかれて、功名の期を逸しては、亡くなられたお父様に対しても不孝になります、お母様のお世話は及ばずながら私がいたします、ただ、お母様はお年を召されておりますうえに、御病身でございますから、それだけはお忘れにならないように」
 趙は愛卿に激励せられて、意を決して上京することにした。そこで旅装を調《ととの》え、日を期して出発することになり、中堂に酒を置いて、母親と愛卿の三人で別れの觴《さかずき》をあげた。
 その酒が三まわりした時であった。愛卿は趙に向って言った。
「お母様の御健康をお祝しになっては、いかがでございます」
 趙はいわれるままに觴を母親の前へ捧げた。
 愛卿は立って歌った。それは斉天楽《さいてんがく》の調べに合わせて作った自作の歌であった。
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恩情功名を把りて誤らず
離筵《りえん》また金縷《きんる》を歌う
白髪の慈親《じしん》
紅顔の幼婦
君去らば誰あって主たらん
流年|幾許《いくばく》ぞ
況《いわ》んや悶々愁々
風々雨々
鳳《ほう》拆《くだ》け鸞《らん》分《わか》る
未だ知らず何《いず》れの日にか更に相《あい》聚《あつま》らん

君が再三|分付《ぶんぷ》するを蒙り
堂前に向って侍奉《じほう》す
辛苦を辞するを休《や》め
官誥《かんこう》花を蟠《ばん》し
宮袍《きゅうほう》錦《にしき》を製す
妻を封じ母を拝するを待たんことを要す
君|須《すべか》らく聴取すべし
怕《おそ》る日西山に薄《せま》って愁阻を生じ易きことを
早く回程《かいてい》を促して
綵衣《さいい》相対《あいたい》して舞わん
[#ここで字下げ終わり]
 歌が終った時ぶんには、皆の眼に涙が光っていた。趙を載せて往く舟は、門の前に纜《ともづな》を解いて待っていた。
 趙は酔に力を借って別れを告げて舟へ乗った。愛卿は趙を送って岸へ出て、離れて往く舟に向って白い小さい手端《てさき》を見せていた。

 趙はやがて大都へ往った。往ってみると尚書は病気で官を免ぜられていた。趙は進退に窮して旅館へ入り、故郷へ引返そうか、仕官の口を探そうかと思って迷っているうちに、数ヶ月の日子《にっし》が経った。
 一方故郷の方では、旅に出た我が子の身の上を夜も昼も心配していた趙の母親は、その心配からまた病気がちの体を痛めて、病床の人となった。愛卿は人の手を借らずに、自分で薬を煎じ、粥をこしらえて母親に勧め、また神にその平癒を祈った。
「あの子は、どうしたというだろう、何故便りがないだろう」
 母親は愛卿の顔を見るたびに、こんなことをいって聞いた。
「なに、今に何か言ってまいりますよ、それとも官が定ったので、御自分でお迎えにきていらっしゃるかも判りません、御心配なされることはありませんよ」
 愛卿はしかたなしにいつもこんなような返事をして慰めていたが、自分でも母親以上に心配していた。
 そのうちに半年ばかりになったが、母親の病気はひどくなって、もう愛卿の勧める薬を自分の手で飲むことすらできないようになった。愛卿は枕頭《まくらもと》に坐って、死に面している老婆の顔を見て泣いていた。と、麻殻《あさがら》のような痩せた冷たい手がその手にかかった。
「もう私はだめだ、あんたにひどく厄介をかけたが、その返しをすることもできない、このうえ、私の望みは、早くあの子が旅から帰ってくれて、あんたとの間に、児《こども》ができ、孫ができて、その児や孫達に、あんたが私にしてくれたように、あんたに孝行をさしたい、もし、天がこのことを見ていらっしゃるなら、きっとそうしてくだされる」
 母親はそれをやっと言ってから、呼吸《いき》が絶えてしまった。愛卿はその死骸に取り著いて泣いていた。
 愛卿はその母親の死骸を白苧村《はくちょそん》に葬ったが、心から母親の死を悲しんでいる彼女は、その悲しみのために健康を害して、げっそり体が痩せて見えた。
 それは元の至正十七年のことであった。その前年、張士誠《ちょうしせい》が平江《へいこう》を陥れたので、江浙左丞相達織帖睦邇《こうせつさじょうそうたつしきちょうぼくじ》が苗軍《びょうぐん》の軍師|楊完《ようかん》という者に檄を伝えて、江浙の参政の職を授け、それを嘉興で拒《ふせ》がそうとしたところが、規律のない苗軍は掠奪を肆《ほしいまま》にした。
 楊完の麾下《きか》に劉万戸《りゅうまんこ》という者があったが、手兵を連れて突然趙の家へきた。愛卿は大いに驚いて逃げようとしたが、逃げる隙がなくとうとう捕えられて、万戸の前へ引きだされた。
 万戸は愛卿の顔を赤濁《あかにごり》のしたいかつい眼でじっと見ていたが、いきなり抱きかかえて一室の中へ入って往った。愛卿はもう悶掻《もが》くのをやめていた。万戸の毛もくじゃらの頬はすぐ愛卿の頬の近くにあった。
「体が、体が汚れております、ちょっと湯あみをさしてくださいまし」
 万戸はすこし顔を引いて愛卿の顔を見た。
「なりもこんな汚いなりをしております、ちょっとお待ちを願います」
 愛卿はにっと笑って万戸の眼を見入った。
「そうか」
 万戸もにっと笑って愛卿を下におろした。
 愛卿はも一度万戸の方を見て恥かしそうに笑いながら外へ出た。そして、一室へ入って水で体を洗い、静かに、傍《かたわら》の閤《こざしき》へ入って往ったが、それっきり出てこなかった。
 女のくるのを待っていた万戸は、あまり遅いので不審を起して、探し探し閤の中へ往った。閤の中では愛卿が羅巾《らきん》を首にかけて縊《くび》れていた。
 万戸は驚いて介抱したが蘇生しないので、綉褥《しとね》に包んで家の背後の圃中《はたなか》にある銀杏《いちょう》の樹の下へ埋めた。

 間もなく張士誠は、江浙左丞相達織帖睦邇の許《もと》へ款《かん》を通じて、降服したいといってきたので、達丞相は参政|周伯埼《しゅうはくき》などを平江へやって、これを撫諭《ぶゆ》さし、詔《みことのり》を以って士誠を大尉にした。
 それがために楊参政は殺されて、麾下の軍士は四散した。大都の旅館にいた趙は、故郷へ引返すことに定めて帰ろうとしたところで、嘉興が戦乱の巷になりかけているということを聞いたので、帰ることもできずに家のことを心配していたが、そのうちに士誠が降り楊参政の軍が潰滅した。従って道も通じたので、はじめて舟に乗って帰り、太倉《たいそう》からあがって往った。
 嘉興の城内は、到る処に破壊の痕を止めていた。見覚えのある第宅が無くなっていたり、第宅はあっても住んでいる人が変っていたりした。趙は自分の家のことを心配しながら走るようにして歩いて往った。
 家は依然として立っていたが、入口の扉はとれて生え茂った雑草の中に横たわっており、調度のこわれなどが一面に散らかって、それに埃《ほこり》がうず高くつもっていた。脚下《あしもと》で黒い小さなものがちょろちょろと動くので、よく見るとそれは鼠であった。
 荒廃した家の内からは、返事をする者もなければ、出てくる者もいなかった。趙は驚いて家の中を駈け廻ったが、母親の影も愛卿の影も、その他にも人の影という影は見えなかった。
 趙は茫然として中堂の中に立っていた。庭の方で鳥の声がした。それは夕陽の射した庭の樹に一羽の※[#「号+鳥」、第3水準1−94−57]《ふくろう》がきて啼いているところであった。
 淋しい夕暮がきた。趙は母親と愛卿は、楊参政の麾下の掠奪に逢って、どこかへ避難しているだろうと思いだした。彼は翌日知人を訪うて精《くわ》しい容子を聞くことにして、そのあたりを掃除して一夜をそこで明かした。
 朝になって趙は、嘉興の東門となった春波門を出て往った。そこには紅橋があった。趙はその側へ往ったところで見覚えのある老人に往き逢った。
「おい、爺じゃないか」
 それはもと使っていた僕《げなん》であった。
「だ、旦那様じゃございませんか」
 老人は飛びかかってきそうな容《ふう》をして言った。
「ああ、俺だよ」
 趙は一刻も早く母親と愛卿のことが聞きたかった。
「爺や、お前に聞きたいが、家のお母さんと
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