《いちょう》の樹の下へ埋めた。
間もなく張士誠は、江浙左丞相達織帖睦邇の許《もと》へ款《かん》を通じて、降服したいといってきたので、達丞相は参政|周伯埼《しゅうはくき》などを平江へやって、これを撫諭《ぶゆ》さし、詔《みことのり》を以って士誠を大尉にした。
それがために楊参政は殺されて、麾下の軍士は四散した。大都の旅館にいた趙は、故郷へ引返すことに定めて帰ろうとしたところで、嘉興が戦乱の巷になりかけているということを聞いたので、帰ることもできずに家のことを心配していたが、そのうちに士誠が降り楊参政の軍が潰滅した。従って道も通じたので、はじめて舟に乗って帰り、太倉《たいそう》からあがって往った。
嘉興の城内は、到る処に破壊の痕を止めていた。見覚えのある第宅が無くなっていたり、第宅はあっても住んでいる人が変っていたりした。趙は自分の家のことを心配しながら走るようにして歩いて往った。
家は依然として立っていたが、入口の扉はとれて生え茂った雑草の中に横たわっており、調度のこわれなどが一面に散らかって、それに埃《ほこり》がうず高くつもっていた。脚下《あしもと》で黒い小さなものがちょろちょろと動くので、よく見るとそれは鼠であった。
荒廃した家の内からは、返事をする者もなければ、出てくる者もいなかった。趙は驚いて家の中を駈け廻ったが、母親の影も愛卿の影も、その他にも人の影という影は見えなかった。
趙は茫然として中堂の中に立っていた。庭の方で鳥の声がした。それは夕陽の射した庭の樹に一羽の※[#「号+鳥」、第3水準1−94−57]《ふくろう》がきて啼いているところであった。
淋しい夕暮がきた。趙は母親と愛卿は、楊参政の麾下の掠奪に逢って、どこかへ避難しているだろうと思いだした。彼は翌日知人を訪うて精《くわ》しい容子を聞くことにして、そのあたりを掃除して一夜をそこで明かした。
朝になって趙は、嘉興の東門となった春波門を出て往った。そこには紅橋があった。趙はその側へ往ったところで見覚えのある老人に往き逢った。
「おい、爺じゃないか」
それはもと使っていた僕《げなん》であった。
「だ、旦那様じゃございませんか」
老人は飛びかかってきそうな容《ふう》をして言った。
「ああ、俺だよ」
趙は一刻も早く母親と愛卿のことが聞きたかった。
「爺や、お前に聞きたいが、家のお母さんと家内は、どこにいるだろう、お前は知らないのか」
「旦那様は、まだ御存じがないのですか」
「知らない、どうした、お母さんと家内は、どうしたというのだ」
趙はせき込んで言った。
「旦那様、えらいことが出来ております」
老人の眼に涙が湧いて見えた。
「どうした、早く言ってくれ」
「旦那様、びっくりなされちゃいけません、大奥様は御病気でお亡くなりになりますし、若奥様は苗軍《びょうぐん》の盗人《ぬすびと》のために、迫られて亡くなられました、なんとも申しあげようがございません」
趙は青い顔をして立ったままで何も言えなかった。
「旦那様、しっかりなすってくださいませ、大奥様が御病気になりますと、若奥様が夜も睡らないで御介抱なさいました、お亡くなりになってからも、若奥様がほとんどお一人で、お墓までおこしらえになりましたが、苗軍がやってきて、劉万戸という盗人が、若奥様を見染めて、迫りましたので、若奥様は閤《こざしき》へ入ってお亡くなりなさいました」
「そうか、俺が旅に出たばかりに、こんなことになった、俺が悪い、爺や俺は馬鹿者だ」
趙は老人を連れてその足で白苧村にある母親の墓へ往った。墓場には愛卿の手で植えた小松が美くしい緑葉を見せていた。
「これは若奥様のお植えになったものでございます」
老人はまた墓の盛り土へ指をさした。
「これも若奥様が御自身でお造りになりました」
趙は老人と家へ帰って、家の背後の圃中《はたなか》に立った銀杏の下へ往った。趙は愛卿の死骸を見たかった。
墓が発《あば》かれて、綉褥《しとね》に包まれた愛卿の死骸が露われた。趙は我を忘れてそれを開けてみた。
ただちょっと睡っているようにしか見えない生々《なまなま》した死骸であった。趙はその死骸へ手をやって泣いたがそのまま気が遠くなってしまった。
趙は老人の介抱によってやっと我に還った。彼はそこで愛卿の死骸を家の中へ運んで、香湯《こうゆ》で洗い、その姿にふさわしい華美な服を被《き》せて、棺に納め、それを母親の墓側へ持って往って葬った。
改葬が終ったところで、趙は墓へ向って言った。
「お前は聡明な女であった、凡人ではなかった、わしの心が判っているなら、もとの姿を一度見せておくれ」
趙は家へ帰っても銀杏の下へ往って、これと同じようなことを言ったが、これはその日ばかりでなしに、翌日もその翌日も、毎日のよう
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