に白苧村の墓と銀杏の下へ往ってそれを言った。
十日近くにもなった頃であった。その晩は家のまわりに暗い闇が垂れさがって、四辺《あたり》がひっそりしていた。趙は一人中堂にいたが、退屈でしようがないので、いっそ寝ようかと思ったが、どうも寝就《ねつ》かれそうもないので、そのまましかたなしにじっとしていた。と、どこからか泣声のような物声が聞えてきた。趙は不思議に思うてその方へ耳をやった。それは確かに咽《むせ》び泣く泣声であった。
泣声はすぐ近くに聞えた。趙は何者の泣声だろうと思って、起って声のした方へ眼をやったが何も見えなかった。趙はこの時ふと思いだしたことがあった。
「だれ、愛愛じゃないのか、愛愛なら何故すぐきてくれない、愛愛じゃないのか」
趙はこう言ってまた透して見た。
「愛愛でございます、あなたのお言葉に従いましてまいりました」
それは耳の底にこびりついている愛卿の声であった。趙はその方へ眼をやった。人の歩いてくるような気配がして物の影がひらひらとしたが、やがて五足か六足かの前へ白い服を著た人の姿がぼんやりと浮んだ。面長な白い顔も見えた。それは生前そのままの愛卿の姿であったが、ただ首のまわりに黒い巾《きれ》を巻いているだけが違っていた。
愛卿の霊は趙の方を見て拝《おじぎ》をしたが、それが終ると悲しそうな声を出して歌いだした。それは沁園春《しんえんしゅん》の調にならってこしらえた自作の歌であった。
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一別三年
一日三秋
君何ぞ帰らざる
記す尊姑《そんこ》老病《ろうびょう》
親《みずか》ら薬餌《やくじ》を供す
塋《けい》を高くして埋葬し
親《みずか》ら麻衣《まい》を曳く
夜は燈花を卜《ぼく》し
晨《あした》に喜鵲《きじゃく》を占う
雨梨花《あめりか》を打って昼扉《ひると》を掩《おお》う
誰か知道《し》らん恩情永く隔《へだた》り
書信全く稀ならんとは
干戈《かんか》満目《まんもく》交《こもごも》揮《ふる》う
奈《いずく》んぞ命薄く時|乖《そむ》き
禍機《かき》を履《ふ》んで鎖金《しょうきん》帳底《ちょうてい》に向う
猿驚き鶴怨む
香羅巾下《こうらきんか》
玉と砕け花と飛ぶ
三貞を学ばんことを要せば
須《すべから》く一死を拆《す》つべし
旁人《ぼうじん》に是非を語らるることを免る
君相念いて算除《さんじょ》せよ
画裏に崔徽《さいき》を見るに非ず
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歌の中に啜《すす》り泣きが交って、詞《ことば》をなさないところがあった。趙も涙を流してそれを聞いていた。
歌の声は消えるように輟《や》んだ。趙は夢の覚めたようにして愛卿の側へ往った。
「おいで、お前にはいろいろ礼も言いたい、よくきてくれた」
趙の手と愛卿の手はもう絡みあった。二人は室の中へ入った。
「お前はお母さんのお世話をしてくれたうえに、わしのために節を守ってくれて、なんともお礼の言いようがない、わしは、今、更《あらた》めて礼を言うよ」
「賤《いや》しい身分の者を、御面倒を見ていただきました、お母様は私がお見送りいたしましたが、思うことの万分の一もできないで、申しわけがありません、賊に迫られて自殺したのは幾分の御恩報じだと思いましたからであります、お礼をおっしゃられては恥かしゅうございます」
「いや、お礼を言う、それにしても、お前を賊に死なしたのは、残念で残念でたまらない、今、お前は冥界《めいかい》におるから、お母さんのことも判ってるだろうが、お母さんは、今、どうしていらっしゃる」
「お母様は、罪のない体でしたから、もう人間に生れかえっております」
「お前は、何故、いつまでもそうしておる」
「私は、私の貞烈のために、無錫《ぶしゃく》の宋《そう》という家へ、男の子となって生れることになっておりますが、あなたに情縁が重うございますから、一度あなたにお眼にかかるまで、生れ出る月を延ばしております、が、もうお眼にかかりましたから、明日は往って生れます、もしあなたがこれまでの情誼をお忘れにならなければ、一度宋家へ往って、私を御覧になってくださいまし、笑ってその験《しるし》をお眼にかけます」
趙と愛卿の霊は、手を取りあって寝室へ往って歓会したが、楽しみは生前とすこしも変らなかった。
鶏の声が聞えた。
「私は、帰らなくてはなりません、これでお別れいたします」
愛卿の霊は泣きながら榻《ねだい》をおりた。趙も後から送って出た。
愛卿の霊は階をおりて三足ばかり往ったが、ふと涙に濡れている顔を此方へ見せた。
「これでいよいよお別れいたします、どうかお大事に」
趙も胸がいっぱいになって言おうと思うことが口に出なかった。
暁の光がうっすらと見えた。と、愛卿の霊は燈の消えるように見えなくなった。室の方を見ると有明の燈の光が消えかかっていた。
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