きなかった。家の者が気をつけてみると酔ったように解らなくなっていた。呼び起しても醒めなかった。家の者は魂を失ったのではあるまいかと思って、野原へ往って、魂を招く法式を行ったが効がなかった。強いて体を叩いて、
「おい、しっかりしろ、どうしたのだ」
 といって訊くと、孫はぼんやりした声で、
「俺は阿宝の家にいるのだ」
 と言った。家の者はもうすこし精《くわ》しいことを訊こうと思って問うたが、孫は黙ってしまってもう何も言わなかった。家の者は驚き惑うばかりで理由が解らなかった。
 はじめ孫は、阿宝の帰って往くのを見て、捨ててゆけない気になると共に、自分の体がそれに従いて往くのを感じた。そして、やっとその帯の間にひっついたが、べつに叱る者もなかった。とうとう女の家へ帰って、寝る時も坐る時もいつもいっしょにいるようになった。孫は甚だ得意であったが、ひもじいので、一度家へ帰ろうと思っても路が解らなかった。
 女は毎晩夢の中で男に愛せられるので、
「あなたは、何人《だれ》」
 と言って訊いた。すると男は、
「私は孫子楚だよ」
 と言った。女は心のうちで不思議に思ったが、人に言うべきことでもないから黙っていた。
 孫の体は榻に寝てから三日になったが、息がかすかになって今にも滅入りそうになった。家の者はひどく驚いて人を豪商の許へやって、そこで魂を招かしてくれと頼んだので、阿宝の父親は笑って言った。
「ふだん往復したことのない者が、なんで私の家へ魂を遺してゆこう」
 孫の家の者はそれでも是非招かしてくれと頼んだので、阿宝の父親もやっと承諾した。そこで巫《かんなぎ》が孫の着ふるしの着物と草で織った敷物をもって豪商へ往った。阿宝はその事情を聞いてひどく駭《おどろ》き、他へ往かさずにすぐに自分の室へあげて魂を招かした。そして巫がその法式を行って帰り、孫の家の門口まで往ったところで、榻の上の孫の体がうめきだしたが、間もなく醒めた。そこで阿宝の室の鏡台はじめ什具《じゅうぐ》の色合や名前を訊いてみると、すこしも違わなかった。阿宝はそのことを伝え聞いてますます駭くと共に、陰《ひそか》にその情の深いのに感じた。
 孫は既に病牀を離れたが、阿宝のことが忘れられないので、時とするとものを忘れた人のようになって考えこむことがあった。そしていつも阿宝の身辺に注意していて、もう一度逢ってみたいと思っていた。四月八日の灌仏会《かんぶつえ》の日がきて、阿宝が水月寺へ参詣するということを聞いて、朝早く往って道中で待っていた。そして車に乗ってくる人を注意していたが、あまりに一心になって見つめていたためにたちくらみがした。
 午ごろになって阿宝の車がやっと来た。阿宝は車の中から孫を見つけて、しんなりした手で簾《すだれ》を搴《あ》げて、目もはなさずに見つめた。孫はますます心を動かされて後から従いて往った。阿宝はとうとう侍女に言いつけて孫に尋ねさした。
「失礼ですが、あなたのお名前は」
 孫は殷懃《いんぎん》に言った。
「私は孫子楚というものでございます」
 孫の魂はますますぐらついた。そのうちに車は往ってしまった。孫はそこでやっと帰ってきたが帰るとまた病気になって、精神が朦朧となり、食事もせずに夢中になって阿宝の名を呼んだ。そして自分の魂の霊験のなくなったのを恨んだ。
 その孫の家には一羽の鸚鵡《おうむ》を飼ってあったが、急に死んでしまったので、児《こども》が持ってきて孫の榻の傍で弄《いじ》っていた。孫はそれを見てもし自分が鸚鵡になることができたなら、飛んで女の室へ往けるのだと思った。そして心をそれに注《と》めていた。と、体がひらりと鸚鵡になって、不意に飛びあがりそのまますぐに阿宝の所へ往った。阿宝は入ってきた鸚鵡を見て喜んでつかまえ、肘に鎖をつけて麻の実を餌にやった。すると孫の鸚鵡は大声で叫んだ。
「お嬢さん、鎖をつけちゃ駄目です、僕は孫子楚ですよ」
 阿宝はひどく駭いて鎖を解いた。孫の鸚鵡は動かなかった。そこで女は言った。
「あなたのお心は、心にきざんでおりますけれど、今となっては、禽《とり》と人と種類がちがいますから、結婚することができないじゃありませんか」
 孫の鸚鵡が言った。
「僕は、あなたの側にいられるなら、本望だ」
 他の人が餌をやっても食わなかったが、阿宝がやれば食った。そして、阿宝が坐るとその膝の上に止まり、寝るとその榻に止まった。
 そんなふうで三日になった。阿宝はそれがひどく気の毒になって、陰に人をやって孫の家の容子《ようす》を見さした。孫は寝たまま気を失って、已に三日になっていたが、ただ胸のさきが冷えきらないばかりであった。阿宝はそこで言った。
「あなた、能《よ》く人になることができたなら、きっとあなたの、お心に従いましょう」
 孫の鸚鵡が言った。
「僕をだます
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