、一曲お歌いなさいよ。」
 女はそこで低い声で朗吟《ろうざん》[#ルビの「ろうざん」はママ]した。
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間階桃花《かんかいとうか》取次に開く
昨日|踏青《とうせい》小約未だ応《まさ》に乖《もと》らざるべし
嘱付《しょくふ》す東隣の女伴
少《すこし》く待ちて相催すなかれ
鳳頭鞋子《ほうとうあいし》を着け得て即《すなわ》ち当《まさ》に来るべし
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 朗吟が終った。一座の者で賞《ほ》めない者はなかった。一座はやがて笑い話になった。不意に大きな男があらわれて来た。それは恐ろしい顔の鶻《くまだか》のように眼のぎらぎらと光る男であった。女達は口ぐちにいった。
「妖怪《ばけもの》だ。」
 皆あわてふためいて鳥が飛び散るようにばらばらになって逃げた。ただ朗吟していた者だけは、なよなよとした姿でためらっているうちにつかまえられ、啼《な》き叫びながら一生懸命になって抵抗した。怪しい男は吼《ほ》えるように怒って、女の手に噛みついて指を噛み断《き》り、それをびしゃびしゃと噛《か》んだ。女はそこで地べたに※[#「足へん+倍のつくり」、第3水準1−92−37]《たお》れて死んだようになった。玉は気の毒でたまらなかった。そこで急いで剣を抽《ぬ》いて出ていって切りつけた。剣は怪しい男の股《あし》に中って一方の股が落ちた。怪しい男は悲鳴をあげて逃げていった。
 玉は女を抱きかかえて室の中へ伴《つ》れて来た。女の顔色は土のようになっていた。見ると襟《えり》から袖にかけてべっとりと血がついていた。その指を験《しら》べると右の拇《おやゆび》が断《き》れていた。玉は帛《きぬ》を引き裂いてそれをくるんでやった。女は気がまわって来て始めて呻《うめ》きながらいった。
「あぶない所を助けていただきまして、どうしてお礼をしたらいいでしょう。」
 玉は覘《のぞ》いていた時から、心の中でこんな女を弟の細君にしてやりたいと思っていたので、そこで弟と結婚してもらいたいと言った。女はいった。
「かたわ者は、人の奥さんになることができませんから、べつに弟さんにお世話をしましょう。」
 玉はそこでそれは何という女であるかといってその姓を訊いてみた。
「何という方でしょう。」
 女はいった。
「秦《しん》というのです。」
 玉《ぎょく》はそこで衾《やぐ》を展《の》べて暫く女をやすまし、自分は
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