阿霞
蒲松齢
田中貢太郎訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)文登《ぶんとう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)数日間|留《と》めて
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)半月[#「半月」は底本では「年月」]位前
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文登《ぶんとう》の景星《けいせい》は少年の時から名があって人に重んぜられていた。陳《ちん》生と隣りあわせに住んでいたが、そこと自分の書斎とは僅かに袖垣《そでがき》一つを隔てているにすぎなかった。
ある日の夕暮、陳は荒れはてた寂しい所を通っていると、傍の松や柏の茂った中から女の啼《な》く声が聞えて来た。近くへいってみると、横にしだれた樹の枝に帯をかけて、縊死《いし》しようとしているらしい者がいた。陳は、
「なぜ、そんなことをするのです。」
といって訊いた。それは若い女であった。女は涕《なみだ》を拭いながら、
「母が遠くへまいりましたものですから、私を従兄《いとこ》の所へ頼んでありましたが、従兄がいけない男で、私の世話をしてくれないものですから、私は独りぼっちです。私は死ぬるがましです。」
といってからまた泣いた。陳は枝にかけてある帯を解いて、
「困るなら結婚したらいいでしょう。」
といって勧めた。女は、
「でも私は、ゆく所がないのですもの。」
といった。陳は、
「では、私の家に暫《しばら》くいるがいいでしょう。」
といった。女は陳の言葉に従うことになった。陳は女を伴《つ》れて帰り、燈《あかり》を点《つ》けてよく見ると、ひどく佳《い》い容色《きりょう》をしていた。陳は悦んで自分の有《もの》にしようとした。女は大きな声をたててこばんだ。やかましくいう声が隣りまで聞えた。景は何事だろうと思って牆《かき》を乗り越えて窺きに来た。陳はそこで女を放した。女は景を見つけてじっと見ていたが、暫くしてそのまま走って出ていった。陳と景とは一緒になって逐《お》っかけたが、どこへいったのか解らなくなってしまった。
景は自分の室へ帰って戸を閉めて寝ようとした。と、さっきの女がすらすらと寝室の中から出て来た。景はびっくりして訊いた。
「なぜ、きみは、陳君の所から逃げたかね。」
女はいった。
「あの方は、徳が薄いのに、福が浅いから、頼みにならないですわ。」
景はひどく喜んで、
「きみは、何というのだ。」
といって訊いた。女はいった。
「私の先祖が斉《せい》にいたものですから、斉を姓としてるのですよ。私の幼な名は阿霞《あか》といいますの。」
二人は寝室の中へ入った。景はそこで冗談をいったが、女は笑ってこばまなかった。とうとう女は景の許にいることになった。景の書斎へ友人がたくさん来た。女はいつも奥の室に隠れていた。数日して女がいった。
「私、ちょっと帰ってまいります。それにここは人の出入が多くて、私がいては人に迷惑をかけますから、今から夜よるまいります。」
といった。景は、
「きみの家はどこだね。」
というと、女はいった。
「あまり遠くないことよ。」
とうとう朝早く帰っていったが、夜になると果して来た。二人の間の懽愛《かんあい》はきわめて篤《あつ》かった。また数日して女はいった。
「私たち二人の間は佳《い》いのですけど、いってみると馴れあいですからね。私のお父様が官途に就《つ》いて、西域《せいいき》の方へいくことになって、明日お母さんを伴《つ》れて出発するのですから、それまでに好い機《おり》を見て、お父さんとお母さんの許しを受けて、一生お側にいられるようにして来ますわ。」
景は訊いた。
「じゃ、幾日したら来る。」
女は、
「十日したらまいります。」
と約束して帰っていった。景はその後で女をいつまでも書斎におくことができないから、母屋の方へおきたいと思ったが、そうすると細君がひどく嫉妬しそうであるから、それにはいっそ細君を離縁するがいいと思った。とうとう腹を決めて、細君が傍《そば》へ来ると口ぎたなく罵《ののし》った。細君はその辱《はずかし》めに堪えられないで、泣きながら死のうとした。景はいった。
「ここで死なれちゃ、俺がまきぞえに逢うのだ。どうか早く帰ってくれ。」
とうとう細君をおしだすようにして伴れていこうとした。細君は啼《な》いていった。
「私は、あなたの所へまいりまして十年になります。まだ一度だって悪いことをしたことがないのに、なぜ離縁するのです。」
景は細君の言葉には耳を傾けないで、細君をおったてた。細君はそこで門を出ていった。景は壁を塗り塵を除けて阿霞の来るのを待っていたが、来もしなければ消息もなかった。
景の細君が実家へ帰った後、景の友人達は原《もと》のように復縁させようと思って、しばしば景に交渉したが、景がどうしても承
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