の微風にそよいでいた。金太は最初のうちこそお妖怪《ばけ》のことを頭においていたが、鮒が後から後からと釣れるので、もう他の事は忘れてしまって一所懸命になって釣った。そして、近くの寺から響いて来る鐘に気が注《つ》いて顔をあげた。十日|比《ごろ》の月魄《つきしろ》が池の西側の蘆の葉の上にあった。
 金太はそこで三本やっていた釣竿をあげて、糸を巻つけ、それから水の中へ浸けてあった魚籃をあげた。魚籃には一貫匁あまりの魚がいた。
「重いや」
 金太は一方の手に釣竿を持ち、一方の手に魚籃を持った。と、何処からか人声のようなものが聞えて来た。
「おい、てけ、おい、てけ」
 金太はやろうとした足をとめた。
「おい、てけ、おい、てけ」
 金太は忽ち、嘲《あざけり》の色を浮べた。
「なに云ってやがるんだ、ふざけやがるな、糞《くそ》でも啖《くら》えだ」
 金太はさっさとあるいた。と、また、おい、てけの声が聞えて来た。
「まだ云ってやがる、なに云ってやがるのだ、こんな旨《うま》い鮒をおいてってたまるものけい、ふざけやがるな。狸《たぬき》か、狐《きつね》か、口惜《くやし》けりゃ、一本足の唐傘にでもなって出て来やがれ」
 金太は気もちがわるいので足はとめなかった。と、眼の前へひょいと出て来た者があった。それは人の姿であるから一本足の唐傘ではなかった。
「何だ」
 鈍い月の光に眼も鼻もないのっぺらの蒼白い顔を見せた。
「わたしだよ、金太さん」
 金太はぎょっとしたが、まだ何処かに気のたしかなところがあった。金太は魚籃と釣竿を落とさないようにしっかり握って走った。後からまた聞えてくるおいてけの声。
「なに云やがるのだ」
 金太はどんどん走って池の縁《へり》を離れた。来る時には気が注かなかったが、其処に一軒の茶店があった。金太はそれを見るとほっとした。金太はつかつかと入って往った。
「おい、茶を一ぱいくんねえ」
 行燈《あんどん》のような微暗《うすぐら》い燈のある土室《どま》の隅から老人がひょいと顔を見せた。
「さあ、さあ、おかけなさいましよ」
 金太は入口へ釣竿を立てかけて、土室の横へ往って腰をかけ、手にした魚籃を脚下《あしもと》へ置いた。老人は金太をじろりと見た。
「釣りのおかえりでございますか」
「そうだよ、其所の池へ釣に往ったが、爺さん、へんな物を見たぜ」
「へんな物と申しますと」
「お妖怪《
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