は足や手の先を冷たい所へ所へとやつた。冷たい所へとやつた刹那の感触は心好い嬉しいものであつた。彼はふと夕飯の時に夫の唇から洩れた同情のある言葉を思ひ出した。
「来月の十日頃が来たなら、学校の方も休みになるから、海岸の方へ伴れて行つてやらう、一ヶ月位も呑気にしてをれば癒るだらう、」
砂丘に植ゑた小松の枝振りや、砂の細かな磯際、藍色をした水の色と空の色とが溶け合つた果てしもない海の容などが思ひ出された。それは四五年前結婚した年に、二週間ばかり行つてゐた海岸の印象であつた。ぎらぎら光る陽の光は厭はしかつたが、夕方に小松の葉を動かした風の爽やかさは忘れられなかつた。京子の神経にその風が吹いてゐた。彼は連れていつて貰ふことが出来るものなら、直ぐ明日にでも行きたいと思つた。そして海岸へ行つてその風に吹かれようものなら、斯うした暗いじめじめしたやうな気持はいつぺんになくなつて、体も軽くなるだらうと思つた。彼はそのことを夫に話したいと思つた。そしてそれがはつきりした形になりかけて来ると、もう話して見ようとする気もなくなつた。二階の狭い書斎で海軍省方面の翻訳をしてゐる夫の所へ行くには、きつい梯子段を上
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