は出来て三月位になるらしい人形のやうな子供であつた。呼吸器に故障のあるらしい夫の寝息が、ぐうぐうと蛙の鳴き声のやうに聞えてゐた。
「男の子であらうか、女の子であらうか、」
 京子は無邪気な赤ん坊の寝姿を眺めてゐたが、抱きたくなつたので坐つたままで両手を差し出した。赤ん坊の巻き蒲団にその手が掛つた。細君の眼が開いた。細君の両手は京子の右の手首に蛇のやうにからみついた。
「何をするんです、あなたは何をするんです、」
 京子はその権幕に驚いて手を振り放さうとしたが放れなかつた。
「早く起きて下さい、早く、早く、昨夜の奴が来て、坊やを何うかしようと云ふんですよ、早く、」
 細君は起きあがつて来て京子を横に突き仆して片手をその髪にかけた。細君は又叫んだ。
「早く起きて下さい、昨夜の奴が赤ん坊を取りに来たんですよ。早く、早く、」
 夫は跳び起きた。そして夫の手は京子の頸筋にかかつた。
「よし、此奴か、此奴が昨夜の奴か、」
 京子の咽喉は塞がつて来た。細君の意地悪い手は京子の頬や額のあたりにあたつた。京子は苦しみもがいた。
 赤ん坊の泣き声が聞えた。京子はその泣声をすこし耳に入れたままで分らなくなつてしまつた。

 京子は並んで寝てゐた夫に揺り起されてゐた。夫の何か云ふ声が遠くの方でするやうに思ひながらやつと眼を覚ました。
「何うした、大変うなされてゐるぢやないか、夢を見たんぢやないか、」
 京子は眼を開けた。青い電燈の光が自分の肩に懸けた夫の手を照らしてゐた。京子は首から顔にかけて重い痛みが残つてゐた。
「夢でも見たのかね、うなされてゐたよ、」
「どうも夢ではないんですよ、赤ん坊を抱きに行つて、ひどい目にあつたんですよ、奥様に髪を掴まれて顔を滅茶滅茶に摘ままれたり、旦那は旦那で跳び起きて来て私の咽喉を締めつけるんですもの、」
 夫は笑ひ出した。
「矢張り体のせいだ、体が悪いと深刻な夢を見るもんだ、」
「夢ぢやないんですよ、本当ですよ、顔を滅茶滅茶に摘ままれたんだから、どうかなつてゐやしない、未だに顔から頸の廻りが痛いんですよ、」
 京子は顔に手をやつて、顔一面を撫でた後ちに、夫に見せるやうにした。
「どうもなるもんかね、なつてゐやしないよ、夢ぢやないか」
「でも本当よ、昨夜の家へ又行つて赤ん坊を抱かうとすると、やられたんですよ、何んだか口惜しいんです、」
「それが、矢張り体の具合さ、」
「でも、夢であんなことがあるんでせうか、今でも口惜しいんですよ、あの奥様をどうかして、赤ん坊を取つて来て、投げつけてやりたいと思つたんですよ、」
「やつぱり体だ、体が好けれや、そんな夢は見ないよ、」

 月の表を霧のやうな雲が飛んで沖の方からは強い風が吹いてゐた。砂丘の小松の枝が音を立ててゐた。落松葉が顔にかかつた。砂丘をおりて小川の板橋を渡らうとすると、向ふから渡つて来た人があつた。京子は草の中へ寄つて向ふから来るのを待つてゐた。村の人らしい帽子を冠らない老人であつた。老人は京子の顔をぢつと見た後に砂丘の方へとあがつて行つた。
 京子は橋を渡つた。京子の心は緊張してゐた。京子はずんずんと船板の門の中へと這入つて行つた。彼はもう壁の額も茶の間も見ずに夫婦の寝室へと這入つた。細君の寝床には赤ん坊ばかりで細君は見えなかつた。
「厠へでも行つてるだらう、宜い所だ、」
 京子はいきなり赤ん坊を抱きあげて寝床の上に坐つた。赤ん坊はすやすやと睡つて覚めなかつた。夫の方のぐうぐうと鳴る寝息が耳に付いた。
「この人質を持つてをれば、女がどんなにしても負けることはない、」
 京子は斯う思つて勝利者の愉快を感じてゐた。
「大変、大変、あなた、早く起きて下さいよ、又彼奴が来てゐるんですよ、」
 入口へ立つた細君が縁側を踏みならすやうにして叫んだ。京子は冷笑を浮べてその顔を見た。
「奥様、今晩は私が勝つたんですよ、人質が此所に居りますから、」
 夫の方も起きあがつた。
「何の恨があつて、あなたはそんなことをなさるんです、」
 細君は口惜しさうに云つた。
「何にも恨は無いんですよ、恨はないが、この赤ん坊が好きだから抱きに来たんですよ、」
 京子は冷笑を浮べて云つた。
「好きでも何んでも、誰に許可を受けて、ここへ這入つて来た、」
 夫は立つて京子の方へやつて来た。
「そんなことは聞く必要がない、赤ん坊を抱かすことはならん此方へ寄越せ、」
 細君も這入つて来た。
「お寄越しなさい、それは私の赤ん坊ですよ、あなたに抱かすことはなりませんよ、」
 京子は子供を抱いたなりで立ちあがつた。
「いくら何んと云つても、この赤ん坊はもう渡しませんよ、」
 夫の手は京子の肩にかかつた。細君の手は赤ん坊にかかつた。
「駄目ですよ、」
 京子は二人の手を払い除けるやうにして茶の間の方へと行つた。夫婦は叫び
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