声をあげて追つて来た。京子は茶の間へ這入つた。茶の間の電燈の下には、細君の縫ひかけた洗ひ張の着物の畳んだ物と、ちいさな栽縫箱とが[#「栽縫箱とが」はママ]あつた。栽縫箱には[#「栽縫箱には」はママ]柄を赤く塗つた花鋏があつた。京子は其鋏を片手に取つて広げながら赤ん坊の首の所へと持つて行つた。夫婦は入口へとやつてきた。
「乱暴するなら、これを斯うするんですよ、」
細君の悲痛な叫びが聞えた。細君の両手は鋏を持つた京子の手にかかつた。京子の手がそのはずみに働いた。赤ん坊の首が血に染まりながらころりと畳の上に落ちた。
京子は夫に抱き竦められて寝床の上にゐた。京子は眼をきよときよとさして四辺を見廻した。
「赤ん坊の首なんかがあるもんか、何所にそんなものがある、」
夫は叱るやうに云つた。京子はそれでも恐ろしさうな眼をして四辺を見てゐた。
「矢張り夢さ、体が悪いからそんな夢を見るんだ、今日は脳病院へ行つて、石川博士に診察して貰はう、体のせゐだよ、」
京子は稍気が静まつて来た。
「夢でせうか、本当に恐ろしかつたんですよ、」
「夢さ、神経衰弱がひどくなると、つまらん夢を見るもんだよ、」
二
学校の休みになるを待ち兼ねて京子の夫は京子を連れて、海岸へとやつて来た。其所は山裾になつた土地で、山の方には温泉もあつた。二人は先づ友人から聞いた海岸の旅館へ行つてその上で貸間を探すことにして、汽車からおりると海岸へと向つたが、その海岸へは俥で行くと十四五町もあるが、歩けば五町にも足りないと云ふので、雇うた俥屋にトランクを担がして、夫婦はちひさなバスケツトを一つづつ持つて歩いた。
二時を廻つたばかりの所であつた。風の無い蒸し暑い日で松の葉が真つ直ぐに立つてゐた。松原を出はづれて小松の植はつた砂丘をおりと行くと小さな川が流れてゐた。
「何んだか、私こゝは見覚えがあるやうですよ、」
夫の後から歩いてゐた京子が云つた。
「ちいさい時に、誰かと来たことがあるだらう、」
夫は心持ち振り返るやうに左の片頬を見せた。
「此所へ来たことは無いんですよ。お父さんもお母さんも、昔気質で、旅行なんかしなかつたから来やしないんですよ、」
「さうかなあ、」
丘をおりてしまふとちひさな板橋へ来た。板橋の向ふに真砂を敷いた広い路があつた。
「あの路へ出て来るんだね、」
夫は俥屋に向つて云つた。
「さうです、ずつと廻つてここへ来るんですから、十町以上もありまさア、」
俥屋はトランクの肩を換へて片手にした手拭で顔の汗を拭いた。夫は橋を渡つて行つた。水の中には短い葦が一面に生えてゐた。路の向ふにはすこし高まつた松林の丘があつて其所に三軒ばかり別荘風の家があつた。
京子は厭な顔をして橋の向ふのとつつきにある家を見直した。
「あなた、あなた、」
京子は夫に声をかけた。彼女は橋を渡つて行つた。路の上へあがつた夫は彼の方を向いた。
「何だね、」
「いつかの家ね、この家のやうよ、」
夫には合点がゆかなかつた。
「家つて何んだね、」
「あの夢の家ですよ、」
京子の声は震ひを帯びてゐた。夫はその方へ眼をやつた。竹垣を結ふた船板の門の扉が閉まつた家が眼に付いた。夫は笑ひだした。
「そんな馬鹿なことがあるもんか、」
「でも、さうですよ、小松の生えた丘の具合から、この板橋の具合まで、そつくりですよ、だから見覚があると私が云つたんですよ、」
「そんなことは無いさ、無いが、門が閉まつて空家らしいね、空家なら借りたいもんだが、」
トランクを担いだ車夫がやつて来た。
「俥屋さん、この家は空いてるかね、」
「空いてます、」
「一ヶ月位貸さないだらうか、」
「貸さないことは無いでせうが、この家は、変な家ですよ、先月まで此所にゐた東京者が、赤ん坊を妙な女に締め殺されたつて、借り手が無いんですよ、」
夫は妙な顔をして京子をちらと見た。京子は真青な顔をしてゐた。
「ぢや、まあ宿屋へ行つてからのことにしよう、縁起の悪い家はいけない、」
夫は斯う云つて海岸の方へと歩き出した。京子は並ぶやうにして歩いた。二人はもう何も云はなかつた。向ふの方から老人が一人やつて来た。老人は二人にすれ違はうとして京子の顔をぢつと見た。そしてその眼を車夫に移した、車夫とは見知越の顔であつた。二人は立ちながら何か話しだした。
夫と京子の二人は半町ばかり向ふに歩いてゐた。老人と分れた車夫が早足に追いついて来た。
「旦那、今の男があの家の家主ですよ、」
「さうかね、」
夫は斯う云つたきりで何んとも云はなかつた。車夫は京子の方へ言葉をかけた。
「奥様は、一度、此方へお出でになつた事がありますか、今の男が、何処かでお見かけしたやうだと云つてをりますよ、」
京子は返事をしなかつた。
「いや、これは此方は
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