出すと、此木田は家《うち》の春蚕《はるご》が今朝から上蔟《じやうぞく》しかけてゐると言つて、さつさと帰り仕度をした。校長も、年長《としうへ》の生徒に案内をさせる為に待たしてあるといふので、急いで靴を磨いて出懸けた。出懸ける時に甲田の卓《つくゑ》の前へ来て、
『それでは一寸行つて来ますから、何卒《どうぞ》また。』と言つた。
『は。御緩《ごゆつく》り。』
『今日は此木田さんに宿直して貰ふ積りでゐたら、さつさと帰つて了はれたものですから。』校長は目尻に皺を寄せて、気の毒さうに笑ひ乍ら斯う言つた。そして、冬服の上着のホツクを叮嚀《ていねい》に脱《はづ》して、山樺の枝を手頃に切つた杖を持つて外に出た。六月末の或日の午後である。
校長の門まで出て行く後姿が職員室の窓の一つから見られた。色の変つた独逸《ドイツ》帽を大事さうに頭に載せた格好は何時《いつ》見ても可笑《をか》しい。そして、何時でも脚気患者《かつけやみ》のやうに足を引擦つて歩く。甲田は何がなしに気の毒な人だと思つた。そして直ぐ可笑しくなつた。やかまし屋の郡視学が巡《まは》つて来て散々小言を言つて行つたのは、つい昨日のことである。視学はその
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