学校を卒業した二十三の女であれば、それが普通《あたりまへ》なのかも知れないが、甲田は時々不思議に思ふ。小説以外では余り若い女といふものに近づいた事のない甲田には、何《ど》うしても若い女に冷たい理性などがありさうに思へなかつた。斯う思ふのは、彼が年中青い顔をしてゐるヒステリイ性の母に育てられ、生来《うまれつき》の跛者《ちんば》で、背が低くて、三十になる今迄嫁にも行かずに針仕事許りしてゐる姉を姉としてゐる故《せゐ》かも知れぬ。彼は今迄読んだ小説の中の女で、「思出の記」に出てゐる敏子といふ女を一番なつかしく思つてゐる。然し彼が頭の中に描いてゐる敏子の顔には、何処の隅にも理性の影が漂つてゐない。浪子にしても「金色夜叉」のお宮にしても、矢張さうである。甲田は女の智情意の発達は、大抵|彼処辺《あすこいら》が程度だらうと思つてゐる。そして時々福富と話してるうちに自分の見当違ひを発見する。尤もこれが必ずしも彼を不愉快にするとは限らない。それから又、甲田は、尋常科の一二年には男よりも女の教師の方が可《い》いといふ意見を認めてゐる。理由は、女だと母の愛情を以てそれらの頑是《ぐわんぜ》ない子供を取扱ふ事が出来るといふのである。ところが、福富の教壇に立つてゐる所を見ると、母として立つてるのとは何《ど》うしても見えない。横から見ても縦から見ても、教師は矢張教師である。福富は母の愛情の代りに五段教授法を以て教へてゐる。
 こんな事を、然し、甲田は別に深く考へてゐるのではない。唯時々不思議なやうな気がするだけである。そして、福富がゐないと、学校が張合がなくなつたやうに感じる。福富は滅多な風邪位では欠勤しないが、毎月、月の初めの頃に一日だけ休む。此木田は或時『福富さんは屹度《きつと》毎月一度お休みになりますな。』と言つて、妙な笑ひ方をした。それを聞いて甲田も、成程さうだと思つた。すると福富は、『私は月経が強いもんですから。』と答へた。甲田は大変な事を聞かされたやうに思つて、見てゐると、女教師はそれを言つて了つて少し経つてから、心持顔を赤くしてゐた。福富の欠勤の日は、甲田は一日物足らない気持で過して了ふ。それだけの事である。互に私宅《うち》へ訪ねて行く事なども滅多にない。彼は、この村に福富の外に自分の話対手がないと思つてゐる。これは実際である。そして、決してそれ以上ではないと思つてゐる。人気《ひとけ》の無いやうな、古い大きい家にゐて、雨滴《あまだれ》の音が耳について寝られない晩など、甲田は自分の神経に有機的な圧迫を感じて、人には言はれぬ妄想を起すことがある。さういふ時の対手は屹度福富である。肩の辷《すべ》り、腰の周《まは》りなどのふつくらした肉付を思ひ浮べ乍ら、幻の中の福富に対して限りなき侮辱を与へる。然しそれは其時だけの事である。毎日学校で逢つてると、平気である。唯何となく二人の間に解決のつかぬ問題があるやうに思ふ事のあるだけである。そして此問題は、二人|限《きり》の問題ではなくて、「男」といふものと「女」といふものとの間の問題であるやうに思つてゐる。時偶《ときたま》母が嫁の話を持出すと、甲田は此世の何処かに「思出の記」の敏子のやうな女がゐさうに思ふ。福富といふ女と結婚の問題とは全く別である。福富は角ばつた顔をした、色の浅黒い女である。
 福富は、毎日授業が済んでから、三十分か一時間位づつオルガンを弾く。さうしてから、明日の教案を立てたり、その日の出席簿を整理したりして帰つて行く。福富は何時《いつ》の日でも、人より遅く帰るのである。甲田が時々田辺校長から留守居を頼まれても不服に思はないのは之《これ》がためである。甲田は煙管の掃除をし乍ら、生徒控所の彼方《むかう》の一学年の教室から聞えて来るオルガンの音を聞いて居た。バスの音《おん》とソプラノの音とが、着かず離れずに縺《もつ》れ合つて、高くなつたり低くなりして漂ふ間を、福富の肉声が、浮いたり沈んだりして泳いでゐる。別に好い声ではないが、円みのある、落着いた温かい声である。『――主《しゆ》ウのー手エにーすーがーれエるー、身イはー安《やす》ウけエしー』と歌つてゐる。甲田は、また遣つてるなと思つた。
 福富はクリスチヤンである。よく讃美歌を歌ふ女である。甲田は、何方かと言へば、クリスチヤンは嫌ひである。宗教上の信仰だの、社会主義だのと聞くと、そんなものは無くても可《い》いやうに思つてゐる。そして福富の事は、讃美歌が好きでクリスチヤンになつたのだらうと思つてゐる。或時女教師は、どんなに淋しくて不安心なやうな時でも、聖書を読めば自然と心持が落着いて来て、日の照るのも雨の降るのも、敬虔な情を以て神に感謝したくなると言つた。甲田は、それは貴方が独身でゐる故《せゐ》だと批評した。そして余程|穿《うが》つた事を言つたと思つた。す
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