らねえ。だもんだから、東京の方を方々聞合して、此間《こなひだ》やうやう手紙を寄越したんです。僕が帰らなければ母も死ぬんです。これから帰つて、母を養はなければならないんです。学校はもうお止《や》めです。』
 斯う言つて、小さい方の左の目を一層小さくして、堅く口を結んだ。学業を中途に止めるのを如何にも残念に思つてる様子である。甲田は再《また》此男は嘘を言つてるのではないなと思つた。
『東京にもゐたんですか?』と訊いて見た。
『ゐたんです。K――中学にゐたんです。ところがK――中学は去年閉校したんです。君は知りませんか? 新聞にも出た筈ですよ。』
『さうでしたかねえ。』
『さうですよ。そらあ君、あん時の騒ぎつてなかつたねえ。』
『そんなに騒いだんですか?』
『騒ぎましたよ。僕等は学校が無くなつたんだもの。』そして、色々其時の事を面白さうに話した。然し甲田は別に面白くも思はなかつた。ただ、東京の学校の騒ぎをこんな処で聞くのが不思議に思はれた。学生は終《しま》ひに、K――中学で教頭をしてゐて、自分に目を掛けてくれた某《なにがし》といふ先生が、××中学の校長になつてゐたから、その人を手頼《たよ》つて××に来た。K――で三年級だつたが、××中学ではその時三年に欠員が無くて二年に入れられた。××でも矢張新聞配達をしてゐたと話した。
 甲田は不図《ふと》思出した事があつた。そして訊いてみた。『××中学に、与田《よだ》といふ先生がゐませんか?』
『与田? ゐます、ゐます。数学の教師でせう? 彼奴《あいつ》あ随分点が辛いですな。君はどうして知つてるんです?』
『先《せん》に○○の中学にゐたんです。そして××へ追払はれたんです。僕等がストライキを遣つて。』
『あ、それぢや君も中学出ですか? 師範ぢやないんですね。』
 甲田は此時また、此学生の無遠慮な友達扱ひを不愉快に感じた。甲田は二年前に○○の中学を卒業して、高等学校に入る積りで東京に出たが、入学試験がも少しで始まるといふ時に、父が急病で死んで帰つて来た。それからは色々母と争つたり、ひとり悶へても見たが、どうしても東京に出ることを許されぬ。面白くないから、毎日馬に乗つて遊んでゐるうちに、自分の一生なんか何《ど》うでも可《い》いやうに思つて来た。そのうちに村の学校に欠員が出来ると、縁つづきの村長が母と一緒になつて勧めるので、当分のうちといふ条件で代用教員になつた。時々、自分は何か一足飛《いつそくとび》な事を仕出かさねばならぬやうに焦々《いらいら》するが、何をして可いか目的《めあて》がない。さういふ時は、世の中は不平で不平で耐《たま》らない。それが済むと、何もかも莫迦《ばか》臭くなる。去年の秋の末に、福富が転任して来てからは、余り煩悶もしないやうになつた。
 学生は、甲田が中学出と聞いて、グツと心易くなつた様子である。そして、
『君、済まないがその煙草を一服|喫《の》ましてくれ給へ。僕は昨日から喫まないんだから。』と言つた。
 学生は、甲田の渡した煙管を受取つて、うまさうに何服も何服も喫んだ。甲田は黙つてそれを見てゐて、もう此学生と話してるのが嫌《いや》になつた。斯《か》うしてるうちに福富が帰つて了ふかも知れぬと思つた。すると学生は、
『僕は今日のうちに○○市まで行く積りなんだが、行けるだらうかねえ、君。』と言つた。
『行けない事もないでせう。』と、甲田はそつけなく言つた。学生はその顔を見てゐた。
『何里あります?』
『五里。』
『まだそんなにあるかなあ。』と言つて、学生は嘆息した。そして又、急がしさうに煙草を喫んだ。甲田は黙つてゐた。
 稍《やや》あつて学生は、決心したやうに首をあげて、『君、誠に済まないが、いくらか僕に金を貸してくれませんか? 郷里へ着いたら、何とかして是非返します、僕は今一円だけ持つてんだけれど、これは郷里へ着くまで成るべく使はないやうにして行かうと思ふんです。さうしないと不安心だからねえ。いくらでも可いんです。屹度返します、僕は君、今日迄三晩共|社《やしろ》に泊つて来たんです。木賃宿に泊つてもいくらか費《かか》るからねえ。』と言つた。
 甲田は、社《やしろ》に泊るといふことに好奇心を動かした。然しそれよりも、金さへ呉れゝば此奴《こいつ》が帰ると思ふと、うれしいやうな気がした。そして職員室に行つてみると、福富はまだ帰らずにゐた。甲田は明日持つて来て返すから金を少し貸して呉れと言つた。女教師は、
『少ししか持つてませんよ。』と言ひ乍ら、橄欖色《オリイブいろ》のレース糸で編んだ金入を帯の間から出して、卓《つくゑ》の上に逆さまにした。一円紙幣が二枚と五十銭銀貨一枚と、外に少し許り細かいのがあつた。福富は、
『呉れてやるんですか?』と問うた。
 甲田はただ『ええ。』と言つた。そして、五十銭
前へ 次へ
全7ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング