気持がしなかつた。学校へ行つてから、高等科へ来てゐる木賃宿の子供を呼んで、これこれの男が昨晩泊つたかと訊いた。子供は泊つたと答へた。甲田は愈《いよいよ》俺は訛《だま》されたと思つた。そして、其奴《そいつ》が何か学校の話でもしなかつたかと言つた。子供は、何故こんな事を聞かれるのかと心配相な顔をし乍ら、自分は早くから寝てゐたからよくは聞かないが、家《うち》の親爺《おやぢ》と何か先生の事を話してゐたやうだつたと答へた。
『どんな事?』と甲田は言つた。
『どんな事つて、なんでもあの先生のやうな人をこんな田舎に置くのは、惜しいもんだつて言ひました。』
甲田は苦笑ひをした。
その翌日である。恰度授業が済んで職員室が顔揃ひになつたところへ、新聞と一緒に甲田へ宛てた一枚の葉書が着いた。甲田は、「○○市にて、高橋次郎吉」といふ差出人の名前を見て首を捻《ひね》つた。裏には斯《か》う書いてあつた。
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My dear Sir, 閣下の厚情万謝々々。身を乞食にやつして故郷に帰る小生の苦衷御察し被下度《くだされたく》、御恩は永久に忘れ不申《まをさず》候。昨日御別れ致候後、途中腹痛にて困難を極め、午後十一時|漸《やうや》く当市に無事安着仕候。乍他事《たじながら》御安意|被下度《くだされたく》候。何《いづ》れ故郷に安着の上にて Letter を差上げます。末筆乍ら I wish you a happy.
六月二十八日午前六時○○市出発に臨みて。
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甲田は吹出《ふきだ》した。中学の三年級だと言つたが、これでは一年級位の学力しかないと思つた。此木田老訓導は、『何《ど》うしました? 何か面白い事がありますか?』と言ひ乍ら、立つて来てその葉書を見て、
『やあ、英語が書いてあるな。』と言つた。
甲田はそれを皆《みんな》に見せた。そして旅の学生に金を呉れてやつた事を話した。○○市へ行くと言つて出て行つて、密《こつそ》り木賃宿へ泊つて行つた事も話した。終《しま》ひに斯う言つた。
『矢張《やつぱり》気が咎《とが》めたと見えますね。だから送中で腹が痛くて困難を極めたなんて、好加減な嘘を言つて、何処までもあの日のうちに○○に着いたやうに見せかけたんですよ。』
『然し、これから二度と逢ふ人でもないのに、何《ど》うしてこの葉書なんか寄越したんでせう?』と田辺校長は言
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