ると福富は、真面目な顔をして、貴方だつて何時《いつ》か、屹度神様に縋《すが》らなければならない時が来ますと言つた。甲田は、そんな風《ふう》な姉ぶつた言振《いひぶり》をするのを好まなかつた。
 少し経つとオルガンの音が止んだ。もう止めて来ても可い位だと思ふと、ブウと太い騒がしい音がした。空気を抜いたのである。そしてオルガンに蓋をする音が聞えた。
 愈々《いよいよ》やつて来るなと思つてると、誰やら玄関に人が来たやうな様子である。『御免なさい。』と言つてゐる。全《まる》で聞いたことのない声である。出て見ると、背の低い若い男が立つてゐた。そして、
『貴方は此処の先生ですか?』と言つた。
『さうです。』
『一寸休まして呉れませんか? 僕は非常に疲れてゐるんです。』
 甲田は返事をする前に、その男を頭から足の爪先まで見た。髪は一寸五分許りに延びてゐる。痩犬のやうな顔をして居る。片方の眼が小さい。風呂敷包みを首にかけてゐる。そして、垢と埃で台なしになつた、荒い紺飛白《こんがすり》の袷の尻を高々と端折つて、帯の代りに牛の皮の胴締《どうじめ》をしてゐる。その下には、白い小倉服の太目のズボンを穿いて、ダブダブしたズボンの下から、草鞋《わらぢ》を穿いた素足《すあし》が出てゐる。誠に見すぼらしい恰好である。年は二十歳位で、背丈は五尺に充たない。袷の袖で狭い額に滲《にじ》んだ膩汗《あぶらあせ》を拭いた。
『ただ休むだけですか?』と甲田は訊いた。
『さうです。休むだけでも可《い》いんです。今日はもう十里も歩いたから、すつかり疲れて居るんです。』
 甲田は一寸《ちよつと》四辺を見廻してから、
『裏の方へ廻りなさい』と言つた。
 小使室へ行つて見ると、近所の子供が二三人集つて、石盤に何か書いて遊んでゐた。大きい炉が切つてあつて、その縁に腰掛が置いてある。間もなくその男が入つて来て、一寸会釈をして、草鞋を脱がうとする。
『土足の儘でも可いんです。』
『さうですか、然し草鞋を脱がないと、休んだやうな気がしません。』
 斯う言つて、その男は憐みを乞ふやうな目付をした。すると甲田は、
『其処に盥《たらひ》があります。水もあります。』と言つた。その時、広い控所を横ぎつて職員室に来る福富の足音が聞えた。子供等は怪訝《けげん》な顔をして、甲田とその男とを見てゐた。
 若い男は、草鞋を脱いで上つて、腰掛に腰を掛け
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