を起すことがある。さういふ時の對手は屹度福富である。肩の辷り、腰の周りなどのふつくらした肉附を想ひ浮べ乍ら、幻の中の福富に對して限りなき侮辱を與へる。然しそれは其時だけの事である。毎日學校で逢つてると、平氣である。唯何となく二人の間に解決のつかぬ問題があるやうに思ふ事のあるだけである。そして此問題は、二人|限《きり》の問題ではなくて、『男』といふものと『女』といふものとの間の問題であるやうに思つてゐる。時偶《ときたま》母が嫁の話を持ち出すと、甲田は此世の何處かに『思出の記』の敏子のやうな女が居さうに思ふ。福富といふ女と結婚の問題とは全く別である。福富は角ばつた顏をした、色の淺黒い女である。
福富は、毎日授業が濟んでから、三十分か一時間オルガンを彈《ひ》く。さうしてから、明日の教案を立てたり、その日の出席簿を整理したりして歸つて行く。福富は何時の日でも、人より遲く歸るのである。甲田は時々田邊校長から留守居を頼まれて不服に思はないのは之が爲めである。甲田は煙管《きせる》の掃除をし乍ら、生徒控所の彼方《むかう》の一學年の教室から聞えて來るオルガンの音を聞いて居た。バスの音とソプラノの音とが
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