甲田には、何《ど》うしても若い女に冷たい理性などがありさうに思へなかつた。斯う思ふのは、彼が年中青い顏をしてゐるヒステリイ性の母に育てられ、生來の跛者《ちんば》で背が低くて、三十になる今迄嫁にも行かずに針仕事許りしてゐる姉を姉として居る故かも知れぬ。彼は今迄讀んだ小説の中の女で『思出の記』に出てゐる敏子といふ女を、一番なつかしく思つてゐる。然し、彼が頭の中に描いてゐる敏子の顏には、何處の隅にも理性の影が漂つてゐない。浪子にしても『金色夜叉』のお宮にしても、矢張りさうである。甲田は女の知情意の發達は、大抵|彼處邊《あすこいら》が程度だらうと思つてゐる。そして時々福富と話して居るうちに自分の見當違ひを發見する。尤もこれが必ずしも彼を不愉快にするとは限らない。それから又、甲田は尋常科の一二年には男より女の教師の方が可いといふ意見を認めてゐる。理由は、女だと母の愛情を以てそれらの頑是《ぐわんぜ》ない子供を取扱ふ事が出來るといふのである。ところが、福富の教壇に立つてゐる所を見ると、母として立つてゐるのとは何《ど》うしても見えない。横から見ても、縱から見ても教師は矢張り教師である。福富は母の愛情の代りに五段教授法を以て教へてゐる。
 そんな事を、然し、甲田は別に深く考へてゐるのではない。唯時々不思議なやうな氣がするだけである。そして、福富がゐないと、學校が張合がなくなつたやうに感じる。福富は滅多な風邪位では缺勤しないが、毎月、月の初めの頃に一日だけ休む。此木田は或時『福富さんは屹度毎月一度お休みになりますな。』と言つて、妙な笑ひ方をした。それを聞いて甲田も、成程さうだと思つた。すると福富は、『私は月經が強いもんですから。』と答へた。甲田は大變な事を聞かされたやうに思つて、見てゐると、女教師はそれを言つて了つて少し經つてから、心持顏を赤くしてゐた。福富の缺勤の日は、甲田は一日物足らない氣持で過して了ふ。それだけの事である。互に私宅《うち》へ訪ねて行く事なども滅多にない。彼はこの村に福富の外に自分の話相手がないと思つてゐる。これは實際である。そして、決してそれ以上ではないと思つてゐる。人氣《ひとけ》[#ルビの「ひとけ」は底本では「ひとげ」]のないやうな、古い大きな家にゐて、雨滴《あまだれ》の音が、耳について寢られない晩など、甲田は自分の神經に有機的な壓迫を感じて、人には言はれぬ妄想を起すことがある。さういふ時の對手は屹度福富である。肩の辷り、腰の周りなどのふつくらした肉附を想ひ浮べ乍ら、幻の中の福富に對して限りなき侮辱を與へる。然しそれは其時だけの事である。毎日學校で逢つてると、平氣である。唯何となく二人の間に解決のつかぬ問題があるやうに思ふ事のあるだけである。そして此問題は、二人|限《きり》の問題ではなくて、『男』といふものと『女』といふものとの間の問題であるやうに思つてゐる。時偶《ときたま》母が嫁の話を持ち出すと、甲田は此世の何處かに『思出の記』の敏子のやうな女が居さうに思ふ。福富といふ女と結婚の問題とは全く別である。福富は角ばつた顏をした、色の淺黒い女である。
 福富は、毎日授業が濟んでから、三十分か一時間オルガンを彈《ひ》く。さうしてから、明日の教案を立てたり、その日の出席簿を整理したりして歸つて行く。福富は何時の日でも、人より遲く歸るのである。甲田は時々田邊校長から留守居を頼まれて不服に思はないのは之が爲めである。甲田は煙管《きせる》の掃除をし乍ら、生徒控所の彼方《むかう》の一學年の教室から聞えて來るオルガンの音を聞いて居た。バスの音とソプラノの音とが、即《つ》かず離《はな》れずに縺れ合つて、高くなつたり低くなつたりして漂ふ間を、福富の肉聲が、浮いたり沈んだりして泳いでゐる。別に好い聲ではないが、圓みのある落着いた温かい聲である。『――主ウの――手エにーすーがーれエるー、身イはー安《やす》ウけエーしー』と歌つてゐる。甲田は、また遣つてるなと思つた。 福富はクリスチャンである。よく讃美歌を歌ふ女である。甲田は何方《どつち》かと言へば、クリスチャンは嫌ひである。宗教上の信仰だの、社會主義だのと聞くと、そんなものは無くても可いやうに思つてゐる。そして福富の事は、讃美歌が好きでクリスチャンになつたのだらうと思つてゐる。或る時女教師は、どんなに淋しくて不安さうな時でも、聖書を讀めば自然と心持が落着いて來て、日の照るのも雨の降るのも、敬虔な情を以て神に感謝したくなると言つた。甲田は、それは貴方が獨身でゐる故だと批評した。そして餘程|穿《うが》つた事を言つたと思つた。すると福富は、眞面目な顏をして、貴方だつて何時か、屹度神樣に縋らなければならない時が來ますと言つた。甲田は、そんな風な姉ぶつた言振《いひぶり》をするのを好まなかつた。
 少し經《た》
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