はした事はありませんと言つた。甲田は、女といふものは正直なものだと思つた。そして、
『それぢややらないのは貴方だけです。』と言つた。福富は目を圓くして、
『まア、校長さんもですか。』と驚いた。
『無論ですとも、盛んに遣つてますよ。』
そこで甲田は、自分がその祕訣を知つた抑々《そも/\》の事から話して聞かした。校長は出席簿を碌々つけないけれども、月末には確然《ちやん》と歩合を取つて郡役所に報告する。不正確な出席總數プラス不正確な缺席總數で割つたところで、結局其處に出來る歩合は矢張り不正確な歩合である。初めから虚僞の報告をする意志が無いと假定したところで、その不正確な歩合を正確なものとして報告するには、少なくとも其間に立派に犯罪の動機が成り立つ。いくら好人物で無能な校長でも、この歩合は不正確だからといふので態々控へ目にして報告するほどの頓馬では無いだらうといふのである。そして斯ういふ結論を下した。田邊校長のやうに意氣地のない、不熱心な、無能な教育家は何處に行つたつてあるものぢやない。田邊校長のゐるうちは、此の村の教育も先づ以て駄目である。だから我々も面倒臭い事は好加減にやつて置くべきである。それから郡視學も郡視學である。あの男は、郡視學に取立てられるといふ話のあつた時、毎日手土産を以て郡長の家へ日參したさうである。すると郡長は、君はそんなに郡視學になりたいのかと言つたさうである。それから又、近頃は毎日君のお陰で麥酒は買はずに飮めるが辭令を出して了へば、もう來なくなるだらうから、當分俺が握つて置かうかと思ふと言つたさうである。これは嘘かも知れないが、何しろあんな郡視學に教育の何たるかが解るやうなら、教育なんて實に下らんものである。あの男は、自分が巡回して來た時、生徒が門まで出て來て叩頭《おじぎ》すれば、徳育の盛んな村だと思ひ、帳簿を澤山備へて置けば整理のついた學校だと思ふに違ひない。それから又、教育雜誌を成るべく澤山買つて置いて、あの男が來た時、机の上に列べて見せると、屹度昇給さして呉れる。これは請合である。あんな奴に小言を言はして置くよりは、初めからちやんと歩合を誤魔化して置く方が、どれだけ賢いか知れぬ。――
甲田は、斯ういふ徹底しない論理を、臆病な若い醫者が初めて鋭利な外科刀《メス》を持つた時のやうな心持で極めて熱心に取り扱つてゐた。そして、慷慨に堪へないやうな顏をして口を噤《つぐ》んだ。太い左の眉がぴり/\動いてゐた。これは彼にとつては珍らしい事であつた。甲田は何かの拍子で人と爭はねばならぬ事が起つても、直ぐ、一心になるのが莫迦臭いやうな氣がして、笑はなくても可い時に笑つたり、不意に自分の論理を抛出《なげだ》して對手《あひて》を笑はせたりする。滅多に熱心になる事がない。そして、十に一つ我知らず熱心になると、太い眉をぴり/\させる。福富も何時かしら甲田の調子に呑まれてしまつて、眞面目な顏をして聞いてゐたが、聞いて了つてから、
『ほんとにさうですねえ。莫迦正直に督促して歩いたりするより、その方が餘程樂ですものねえ。』と言つた。それから間もなくその月の月末報告を作るべき日が來た。甲田と福富とは歸りに一緒に玄關から出た。甲田は『何うです、祕傳を遣《や》りましたか?』と訊いた。女教師は擽ぐられたやうに笑ひ乍ら、
『いゝえ。』と言つた。
『何故|遣《や》らないんです?』甲田は、當然すべきことをしなかつたのを責めるやうな聲を出した。すると福富は、今日は自分の組の歩合は六十二コンマの四四四である。先月より二コンマの少しだけ多い。段々野良の仕事が忙がしくなつて缺席の多くなるべき月に、これ以上歩合を上せては、郡視學に疑はれる惧《おそ》れがある。尤も、今後若し六十以下に下るやうな事があつたら、仕方がないから私も屹度その祕傳を遣るつもりだと辯解した。甲田は女といふものは實に氣の小さいものだと思つた。すると福富は又媚びるやうな目附をして斯う言つた。
『ほんとはそれ許りぢやありませんの。若しか先生が、私に彼樣《あゝ》言つて置き乍ら、御自分はお遣《や》りにならないのですと、私許り詰りませんもの。』
甲田はアハハと笑つた。そして心では、對手に横を向いて嗤《わら》はれたような侮辱を感じた。『畜生!矢つ張り年を老つてる哩《わい》!』と思つた。福富は甲田より一つ上の二十三である。――これは二月も前の話である。
甲田は何時しか、考へるともなく福富の事を考へてゐた。考へると言つたとて、別に大した事はない。福富は若い女の癖に、割合に理智の力を有つてゐる。相應に物事を判斷してゐれば、その行ふ事、言ふ事に時々利害の觀念が閃く。師範學校を卒業した二十三の女であれば、それが普通なのかも知れないが、甲田は時々不思議に思ふ。小説以外では餘り若い女といふものに近づいた事のない
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