。
女は渠の意に随はなかつた! 然し乍ら渠は、此侮辱を左程に憤つては居なんだ。医者の小野山! 彼奴《あいつ》が悪い、失敬だ、人を馬鹿にしてる。何故アノ時顔を出しやがつたか。馬鹿な。俺に酒を飲ました。酒を飲ますのが何だ。失敬だ、不埓だ。用も無いのに俺を探す。黙つて自分の室に居れば可いぢやないか。黙つて看護婦長と乳繰合つて居れば可いぢやないか。看護婦? イヤ不図したら、アノ、モ一人の奴が小野山に知らしたのぢやないか、と疑つたが、看護婦は矢張女で、小野山は男であつた。渠は如何なる時でも女を自分の味方と思つてる。如何なる女でも、時と処を得さへすれば、自分に抱かれる事を拒まぬものと思つて居る。且《かつ》夫《そ》れ、よしや知らしたのは看護婦であるにしても、アノ時アノ室に突然入つて来て、自分の計画を全然《すつかり》打壊したのは医者の小野山に違ひない。小野山が不埓だ、小野山が失敬だ。彼奴は俺を馬鹿にしてる。…………
知らぬ獣に邂逅《でつくは》した山羊の様な眼をして、女は卓子の彼方《むかう》に立つた! 然しアノ眼に、俺を厭がる色が些《ちつ》とも見えなかつた。然うだ、吃驚《びつくり》したのだ。唯吃驚したのだ。尤も俺も悪かつた。モ少し何とか優しい事を云つてからでなくちやならん筈だ。余り性急《せつかち》にやつたから悪い。それに今夜は俺が酔つて居た。酔つた上の悪戯《いたづら》と許り思つたのかも知れぬ。何にしても此次だ、今夜は成功しかねたが此次、此次、…………
だが、モウ五分間アノ儘で居たら? 然う/\、俺が出て来る時何とか云つた。ハテ何だつたらう? ※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》「約束を忘れるな。」か! 「約束」は適切だ。女といふものは一体、男に憎まれる事を嫌ひなものだ。況んや自分の嫌つても居ない男にをやだ。殊に俺は新聞記者だ。新聞記者に憎まれたら最後ぢやないか。幸ひに竹山の奴まだ土地の事情に真暗だ。俺が云ひさへすれや何でも書く。彼奴に書かしたら又素的に捏ね廻して書くからエライ事になる。イヤ待て、待て、若しも、竹山がアノ病院に出入する様になるとしたら、然うだ、矢張一番先に梅野に眼をつけるに違ひない。竹山の下宿は病院の直ぐ前だ。待て/\、此次は明日の晩にしよう。善は急げだ。
若し小野山さへ来なかつたら、と考へが再《また》同じ所に還る。アノ卓子が無かつたら怎《どう》だつたらう? 否、アノ卓子を俺が別の場所へ取除けちやつたら怎だつたらう? 女は二三歩後方にたじろぐ。そして、軽く尻餅を突いて、そして、そして、「許して下さい。」と囁やいて、暗《やみ》の中から真白な手を延べる。……噫、彼奴《あいつ》、彼奴、小野山の奴、アノ畜生が来た許りに……。
渠は恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》事を止度もなく滅茶苦茶に考へ乍ら、目的《あて》もなく唯町中を彷徨《うろつ》き廻つて居た。何処から怎《どう》歩いたか自身にも解らぬ。洲崎町の角の煙草屋の前には二度出た。二度共硝子戸越に中を覗いて見たが、二度共例の恥かしがる娘が店に坐つてなかつた。暗い街から明るい街、明るい街から暗い街、唯モウ無暗に駆けずり廻つて、同じ坂を何度上つたか知れぬ。同じ角を何度曲つたか知れぬ。
が、渠は矢張り明るい街よりも、暗い街の方を多く選んで歩いて居た。そして、明るい街を歩く時は、頭脳《あたま》が紛糾《こんがら》かつて四辺《あたり》を甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》人が行かうと気にも止めなかつたに不拘、時として右側に逸《そ》れ、時として左側に寄つて歩いて居た。一町が間に一軒か二軒、煙草屋、酒類屋《さかや》、鑵詰屋、さては紙屋、呉服屋、蕎麦屋、菓子屋に至る迄、渠が其馬鹿に立派な名刺を利用して借金《かり》を拵へて置かぬ家は無い。必要があればドン/\借りる。借りるけれども初めから返す予算《よさん》があつて借りるのでないから、流石に渠は其《その》家《うち》の人に見られるのを厭であつた。今夜に限らず、借金のある店の前を通る時は、成るべく反対の側の軒下を歩く。
幸ひ、誰にも見付かつて催促を受ける様な事はなかつた。が唯一人、浦見町の暗闇《くらがり》を歩いてる時に、
『オヤ野村さんぢやなくつて? マア何方へ行《いら》つしやるの?』と女に呼掛けられた。
渠は唸る様な声を出して、ズキリと立止つて、胡散臭《うさんくさ》く対手を見たが、それは渠がよく遊びに行く郵便局の小役人の若い細君であつた。
『貴女《あなた》でしたか。』
と云つて其儘行過ぎようとしたが、女がまだ歩き出さずに見送つてる様だつたので、引返して行つて、鼻と鼻と擦合《すれあ》ひさうに近く立つた。
『貴女お一人で何方へ?』
『
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