野の真赤にした大きい顔が、霎時《しばし》渠の眼を去らないで、悠然《ゆつたり》とした笑を続けさせて居た。
それから渠は、種々《いろいろ》と竹山の事も考へて見た。竹山が折角東京へ乗込んで詩集まで出して居ながら、新聞記者などになつて北海道の隅ツこへ流れて来るには、何かしら其処に隠れた事情があるに違ひない。屹度暗い事でもして来たんだらう。然うでなければ、と考へて渠は四年前の竹山について、それかこれかと思出して見たが、一度下宿料を半金だけ入れて、残部《あと》は二三日と云つたのが、遂々《たうたう》十日も延びたので、下宿のアノ主婦が少し心配して居つた外、これぞと云ふ事も思出せなかつた。
竹山の下宿は社に近くて可い、と思ふ。すると又病院の事が心に浮ぶ。それとなき微笑《ほほゑみ》が口元に湧いて、梅野の活溌なのが喰ひつきたい程可愛く思はれる。梅野は美しい、白い。背は少し低いが……アノ真白《ましろ》な肥つた脛、と思ふと、渠の口元は益々緩んだ。医者の小野山も殆んど憎くない。不図したら彼奴も此頃では、看護婦長に飽きて梅野に目をつけてるのぢやないかとも考へたが、それでも些《ちつ》とも憎くない。梅野は美しいから人の目につく、けれども矢張|彼女《あれ》は俺のもんさ。末は怎でも今は俺のもんさ。彼女の挙動《やうす》はまだ男を知つて居ないらしいが、那※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《あんな》に若く見える癖に二十二だつていふから、もう男の肌に触れてるかも知れぬ。それも構はんさ。大抵の女は、表面《うはべ》こそ処女だけれども、モウ二十歳を越すと男を知つてるから喃《なあ》。…………
十時の時計を聞くと、渠は勘定を済ませて蕎麦屋から出た。休坂を上つて釧路座の横に来ると、十日程前に十軒許り焼けた火事跡に、雪の中の所々から、真黒な柱や棟木が倒れた儘に頭を擡げて居た。白い波の中を海馬《かいば》が泳いでる様に。
少し行くと、右側のトある家の窓に火光《あかり》がさして居る。渠は其|窓側《まどぎは》へ寄つて、コツコツと硝子を叩いた、白い窓掛《カーテン》に手の影が映つて半分許り曳かれると、窓の下の炬燵《こたつ》に三十五六の蒼白い女が居る。
『蝶吉さんは未だ帰らないの?』
と優しい低い声で云つた。
『え、未だ。』と女は窓外《そと》を覗いたが、『マア野村さんですか。姐さん達
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