痛《くるしみ》の郷《さと》、涙の谷に住むと云ふのは可いが、そんなら何故神は、人間をして更に幾多の罪悪を犯さしめる機関、即ち肉と云ふものを人間に与へたのだらう?」又或時渠は、不意に竹山の室の障子を開けて、恐ろしいものに襲はれた様に、凄《すさまじ》い位眼を光らして、顔一体を波立つ程|苛々《いらいら》させ乍ら、「肉の叫び! 肉の叫び!」と云つて入つて来た事があつた。其頃の渠の顔は、今の様に四六時中《しよつちう》痙攣《ひきつけ》を起してる事は稀であつた。
 渠は大抵の時は煙草代にも窮してる様であつた。が、時として非常な贅沢をした。日曜に教会へ行くと云つて出て行つて、夜になるとグデングデンに酔払つて帰る事もあつた。
 竹山は毎日の様に野村と顔を合せて居たに不拘、怎したものか余り親しくはなかつた。却つて、駿河台では野村と同じ室に居て、牛込へは時々遊びに来た渠の従弟といふ青年に心を許して居たが、其青年は、頗る率直な、真摯な、冐険心に富んで、何日でもニコニコ笑つてる男であつたけれど、談|一度《ひとたび》野村の事に移ると、急に顔を曇らせて、「従兄には弱つて了ひます。」と云つて居た。
 渠は又時々、郷里《くに》にある自分の財産を親類が怎《どう》とかしたと云つて、其訴訟の手続を同宿の法学生に訊いて居た事があつた。それから、或時宿の女中の十二位なのに催眠術を施《か》けて、自分の室に閉鎖《とぢこ》めて、半時間許りも何か小声で頻《しき》りに訊ねて居た事があつた。隣室の人の洩れ聞いたんでは、何でも其財産問題に関した事であつたさうな。渠は平生、催眠術によつて過去の事は勿論、未来の事も予言させる事が出来ると云つて居た。
 竹山の親しく見た野村良吉は、大略《あらまし》前述《まへ》の様なものであつたが、渠は同宿の人の間に頗る不信用であつた。野村は女学生を蘯《たら》して弄んで、おまけに金を捲上げて居るとか、牧師の細君と怪しい関係を結んでるさうだとか、好からぬ噂のみ多い中に、お定と云つて豊橋在から来た、些と美しい女中が時々渠の室《へや》に泊るという事と、宿の主婦《おかみ》――三十二三で、細面の、眼の表情《しほ》の満干《さしひき》の烈しい、甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》急がしい日でも髪をテカテカさして居る主婦と、余程前から通じて居るといふ事は、人々の
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