居る。新聞の材料は總て自分が供給する樣な話をする。如何なる事件にしろ、記事になるとならぬは唯自分一箇の手加減である樣な話をする。同僚の噂でも出ると、フフンと云つた調子で取合はぬ。渠は今日また頻りに其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》話をして居たが、不圖小宮洋服店の事を思出した。が、渠は怎《どう》したものか、それを胸の中で壓潰して了つて考へぬ樣にした。横山助手は、まだ半分しか出來ぬと云ふ『野菫』と題した新體詩を出して見せた。渠はズッとそれに目を通して、唯「成程」と云つたが、今自分が或非常な長篇の詩を書き始めて居ると云ふ事を話し出した。そして、それが少くとも六ケ月位かかる見込だが、首尾克く脱稿したら是非東京へ行つて出版する。僕の運命の試金石はそれです、と熱心に語つた。梅野は無論其傍に居た。彼女は調劑の方に※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]されて居るので。
それから渠は小野山といふ醫者の室に伴れて行かれて、正宗とビールを出された。醫者は日本酒を飮まぬといふので、正宗の一本は殆ど野村一人で空にした。梅野とモ一人の看護婦が來て、林檎を剥《む》たり、鯣《するめ》を燒いたりして呉れたが、小野山は院長から呼びに來て出て行くとモ一人の方の看護婦も立つた。渠は遽かに膝を立直して腕組をしたが、※[#「りっしんべん+「夢」の「タ」に代えて「目」」、第4水準2−12−81]乎《ぼうつ》とした頭腦を何かしら頻りに突つく。暫し無言で居た梅野が、「お酌をしませうか。」と云つて白い手を動かした時、野村の頭腦に火の樣な風が起つた。「オヤ、モウ空《から》になつてよ。」と女は瓶を倒した。野村は醉つて居たのである。
少し話したい事があるから、と渠が云つた時、女は「さうですか。」と平氣な態度で立つた。二人は人の居ない診察所に入つた。
煖爐《ストーブ》は冷くなつて居た。うそ寒い冬の黄昏が白い窓掛《カーテン》の外に迫つて居て、モウ薄暗くなりかけた室の中に、種々器械の金具が侘し氣に光つて居る。人氣なき廣間に籠る藥の香に、梅野は先ず身慄ひを感じた。
『梅野さん、僕を、醉つてると思ひますか、醉はないで居ると思ひますか?』と云つて、野村は矢庭に女の腕を握つた。其聲は、恰も地震の間際に聞えるゴウと云ふ地鳴《ぢなり》に似て、低い、澤《つや》のない聲ではあつたが、恐ろしい力が籠つて居た。女は眼を圓くして渠を仰いだが、何とも云はぬ。
『僕の胸の中を察して下さい。』と、さも情に迫つた樣な聲を出して、堅く握つた女の腕を力委せに引寄せたと思ふと、酒臭い息が女の顏に亂れて、一方の手が肩に掛る。梅野は敏捷《すばや》く其手を擦り拔けて卓子《テーブル》の彼方へ逃げた。
二人は小さい卓子《テーブル》を相隔てゝ向ひ合つた。渠は、右から、左から、再び女を捉へようと焦慮《あせ》るけれど、女は其度男と反對の方へ動く、妙に落着拂つた其顏が、着て居る職服《きもの》と見分けがつかぬ程眞白に見えて、明確《さだか》ならぬ顏立の中に、瞬きもせぬ一双の眼だけが遠い空の星の樣。其顏と柔かな肩の辷りが廓然《くつきり》と白い輪廓を作つて、仄暗い藥の香の中に浮んで、右に左に動くのは、女でもない、人でもない、影でもなければ、幻でもない。若樹の櫻が時ならぬ雪の衣を着て、雪の重みに堪へかねて、ユラリユラリと搖れるのだ、ユラリユラリと動くのだ。が、野村の眼からは、唯モウ抱けば温かな柔かな、梅野でも誰でもない、推せば火が出る樣な女の肉體だけが見える。
何分經つたか記憶が無い。その間に渠の頭腦は、表面だけ益々|苛立《いらだ》つて來て、底の底の方が段々空虚になつて來る樣な氣分になつた。それでも一生懸命女を捉へようと悶躁《もが》いて居たが、身體はブルブル顫へて居て、左の手をかけた卓子の上の、硝子瓶が二つ三つ、相觸れてカチカチと音を立てて居た。
ガタリと扉が開いて、小野山が顏を出した。
『此處でしたか、何處へ行つたと思つたら。』
と、極りが惡さうにした顏に一寸眼を光らして、ヅカヅカ入つて來た。
『怎《どう》したんです。』と梅野へ。
『アッハハハ。』と、女は底拔な高い聲を出して笑つたが、モウ安心と云ふ樣に溜息を一つ吐いて、『野村さんが面白い事仰しやるもんですからね、私逃げて來たの。』
『何です、野村さん?』醫者は妙に笑つて野村を見た。野村は氣が拔けた樣に、石像の如く立つて、目には女を見た儘、身動《みじろぎ》もせぬ。
『また催眠術をかけて呉れるからツて仰しやるの。』と女は引取つた。『そしたら私の行きたい所は何處へでも伴れてつて見せるし、逢ひたい人には誰にでも逢はせて下さるんですツて。だけど私、過日《このあひだ》でモウ皆に笑はれて、懲々《こり/\》してるんですもの。ぢや施《か》けて下さいつて、欺《だま》して逃げて來たもんだから、野村さんに追驅けられたのよ』
『然《さう》うでしたか』
野村は、發作的に右の手を一寸前に出したが、
『アハハハ。ぢや此次にしませう、此次に、此次には屹度ですよ、屹度|施《か》かけまよ。』と變に硬張《こはゞ》つた聲で云つて、物凄く「アッハハ。」と笑つたが、何時持つて來たとも知れぬ卓子《テーブル》の上の首卷と帽子を取つて、首に捲くが早いか飛び出して來たのであつた。
脈といふ脈を、アルコールが驅け※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つて、血の循環が沸《たぎ》り立つ程早い。さらでだに苛立勝《いらだちがち》の心が、タスカローラの底の泥まで濁らせる樣な大|時化《しけ》を喰つて、唯モウ無暗に神經が昂奮《たかぶ》つて居る。野村は頤を深く首卷に埋めて、何處といふ目的もなく街から街へ※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]り歩いて居た。
女は渠の意に隨はなかつた! 然し乍ら渠は、此侮辱を左程に憤《いきどほ》つては居なんだ。醫者の小野山! 彼奴が惡い、失敬だ、人を馬鹿にしてる。何故アノ時顏を出しやがつたか。馬鹿な。俺に酒を飮ました。酒を飮ますのが何だ。失敬だ、不埒だ。用も無いのに俺を探す。默つて自分の室に居れば可いぢやないか。默つて看護婦長と乳繰合つて居れば可いぢやないか。看護婦? イヤ不圖したら、アノ、モ一人の奴が小野山に知らしたのぢやないか、と疑つたが、看護婦は矢張女で、小野山は男であつた。渠は如何なる時でも女を自分の味方と思つてる。如何なる女でも、時と處を得さへすれば、自分に抱かれる事を拒まぬものと思つて居る。且夫れ、よしや知らしたのは看護婦であるにしても、アノ時アノ室に突然入つて來て、自分の計畫を全然打壞したのは醫者の小野山に違ひない。小野山が不埒だ、小野山が失敬だ。彼奴は俺を馬鹿にしてる。……
知らぬ獸《けもの》に邂逅《でつくわ》した山羊の樣な眼をして、女は卓子《テーブル》の彼方《むかう》に立つた! 然しアノ眼に、俺を厭がる色が些《ちつ》とも見えなかつた。然うだ、吃驚《びつくり》したのだ。唯|吃驚《びつくり》したのだ。尤も俺も惡かつた。モ少し何とか優しい事を云つてからでなくちやならん筈だ。餘り性急《せつかち》にやつたから惡い。それに今夜は俺が醉つて居た。醉つた上の惡戲と許り思つたのかも知れぬ。何にしても此次だ、今夜は成功しかねたが此次、此次、……
だが、モウ五分間アノ儘で居たら? 然う/\、俺が出て來る時何とか云つた。ハテ何だつたらう? ※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》「約束を忘れるな。」か! 「約束」は適切だ。女といふものは一體、男に憎まれる事が嫌ひなものだ。況んや自分の嫌つても居ない男にをやだ。殊に俺は新聞記者だ、新聞記者に憎まれたら最後ぢやないか。幸ひに竹山の奴まだ土地の事情に眞暗だ。俺が云ひさへすれば何でも書く。彼奴に書かしたら又、素的に捏ね※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]して書くからエライ事になる。イヤ待て、待て、若しも竹山がアノ病院に出入する樣になるとしたら、然《さ》うだ、矢張一番先に梅野に眼をつけるに違ひない。竹山の下宿は病院の直ぐ前だ。待て/\、此次は明日の晩にしよう。善は急げだ。
若し小野山さへ來なかつたら、と考へが再《また》同じ所に還る。アノ卓子《テーブル》が無かつたら怎だつたらう? 否、アノ卓子《テーブル》を俺が別の場所へ取除けちやつたら怎《どう》だつたらう? 女は二三歩後にたじろぐ。そして輕く尻餅を突いて、そして、そして、「許して下さい。」と囁《さゝや》いて、暗の中から眞白な手を延べる。……噫、彼奴、彼奴、小野山の奴、アノ畜生が來た許りに……。
渠は恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》事を止度《とめど》もなく滅茶苦茶に考へ乍ら、目的《あて》もなく唯町中を彷徨《うろつ》き※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つて居た。何處から怎《どう》歩いたか自身にも解らぬ。洲崎町の角の煙草屋の前には二度出た。二度共硝子戸越に中を覗いて見たが、二度共例の恥かしがる娘が店に坐つてなかつた。暗い街から明るい街、明るい街から暗い街、唯モウ無暗に驅けずり※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つて、同じ坂を何度上つたか知れぬ。同じ角を何度曲つたか知れぬ。
が、渠は矢張明るい街よりも、暗い街の方を多く選んで歩いて居た。そして、明るい街を歩く時は、頭腦が紛糾《こんがら》かつて四邊《あたり》を甚※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《どんな》人が行かうと氣にも止めなかつたに不拘《かゝはらず》、時として右側に逸《そ》れ、時として左側に寄つて歩いて居た。一町が間に一軒か二軒、煙草屋、酒類屋、鑵詰屋、さては紙屋、呉服屋、蕎麥屋、菓子屋に至る迄、渠が其馬鹿に立派な名刺を利用して借金を拵へて置かぬ家は無い。必要があればドン/\借りる。借りるけれども初めから返す豫算があつて借りるのでないから、流石に渠は其家の人に見られるのを厭であつた。今夜に限らず、借金のある店の前を通る時は、成るべく反對の側の軒下を歩く。
幸ひ、誰にも見付かつて催促を受ける樣な事はなかつた。が唯一人、浦見町の暗闇《くらがり》を歩いている時に、
『オヤ野村さんぢやなくつて? マア何方《どこ》へ行《いら》つしやるの?』と女に呼掛けられた。
渠は唸る樣な聲を出して、ズキリと立止つて、胡散《うさん》臭く對手を見たが、それは渠がよく遊びに行く郵便局の小役人の若い細君であつた。
『貴女《あなた》でしたか。』
と云つて其儘行過ぎようとしたが、女がまだ歩き出さずに見送つてる樣だつたので、引返して行つて、鼻と鼻と擦合ひさうに近く立つた。
『貴方お一人で何方《どこ》へ?』
『姉の所へ行つて來ましたの。マア貴方は醉つていらつしやるわね。』
『醉つて? 然《さ》うです、少し飮《や》つて來ました。だが女一人で此路は危險《けんのん》ですぜ。』
『慣《な》れてますもの。』
『慣《な》れて居ても危險は矢張危險ぢやないですか。危險! 若しかすると恁《か》うしてる所へ石が飛んで來るかも知れません、石が。』と四邊を見※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]したが、一町程|先方《むかう》から提燈が一つ來るので、渠は一二歩|後退《あとしざ》つた。『僕だつて一人歩いてると、チト危險な事があります。』
『マア。ですけれど今夜は、宅が風邪の氣味で寢《やす》んでるもんですから、厭だつたけど一人行つて來ましたの。』
『然《さ》うですか。』と云つたが、フン、宅とは何だい、俺の前で嚊《かゝあ》ぶらなくたつて、貴樣みたいな者に手をつけるもんか。と云ふ氣がして、ツイと女を離れたなり、スタ/\驅け出した。腥《なまぐ》さい笑に眼は暗ながらキラ/\光つて居た。
恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》風に、彼は一時間半か二時間の間、盲目滅法《めくらめつぽう》驅けずり※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つて居たが、其間に
前へ
次へ
全8ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング