云ふ人が。そしたらね、それぢや再《また》來いツて其儘歸したんですとさ。』
『可笑《をか》しくもないぢやないか。』
『マお聞きなさいよ。そしたら其晩|再《また》來ましたの。野村さんは洋服なんか着込んでらつしやるから、見込をつけたらしいのよ。私其時取次に出たから明細《すつかり》見てやつたんですが、これ(と頭に手をやつて、)よりもモット前髮を大きく取つた銀杏返しに結つて、衣服《きもの》は洗晒しだつたけど、可愛い顏してたのよ。尤も少し青かつたけど。』
『酷い奴だ。また泊めたのか?』
『默つてらつしやいよ、貴方《あなた》。そしたら野村さんが、鎌倉へ行つたから二三日歸らないツて云へと云ふんでせう。私可笑しくなつたから默つて上げてやらうかと思つたんですけどね。※[#「口+云」、第3水準1−14−87]咐《いひつか》つた通り云ふと穩《おとな》しく歸つたのよ。それから主婦さんと私と二人で散々|揶揄《からか》つてやつたら、マア野村さん酷い事云つたの。』と竹山の顏を見たが、『あの女は息が臭いから駄目なんですツて。』と云ふなり、疊に突伏して轉げ※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つて笑つた。
 牛込に移つてから二月許り後の事、恰度師走上旬であつたが、野村は小石川の何とか云ふ町の坂の下の家とかを、月十五圓の家賃で借りて、「東京心理療院」と云ふ看板を出した。そして催眠術療法の效能を述立てた印刷物を二千枚とか市中に撒いたさうな。其後二度許り竹山を訪ねて來たが、一度はモウ節季近い凩の吹き荒れて、灰色の雲が低く軒を掠めて飛ぶ不快《いや》な日で、野村は「患者が一人も來ない。」と云つて悄氣《しよげ》返つて居た。其日は服裝も見すぼらしかつたし、云ふ事も「清い」とか「美しい」とか云ふ詞澤山の、神經質な厭世詩人みたいな事許りであつたが、珍らしくも小半日落着いて話した末、一緒に夕飯を食つて、歸りに些と許りの借りた金の申譯をして行つた。一番最後に來たのは、年が新らしくなつた四日目か五日目の事で、呂律の※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]らぬ程醉つて居たが、本郷に居ると許りで、詳しく住所を云はなかつた。歸りは雨が降り出したので竹山の傘を借りて行つた限《きり》、それなりに二人は四年の間殆んど思出す事もなかつたのだ。が、唯一度、それから二月か三月以後の事だが、或日巡査が來て野村の事を詳しく調べて行つたと、下宿の主婦が話して居た事があつた。
 其四年間の渠の閲歴は知る由もない。渠自身も常に其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》話をする事を避けて居たが、それでもチョイチョイ口に出るもので、四年前の渠が知つてなかった筈の土地の事が、何かの機會に話頭に上る。靜岡にも居た事があるらしく、雨の糸の木隱《こがくれ》に白い日に金閣寺を見たといふから、京都にも行つたのであらう。石井孤兒院長に逢つた事があると云つて非常に敬服して居たから、岡山へも行つたらしい。取わけ竹山に想像を費さしたのは、横濱の棧橋に毎日行つて居た事があるといふ事と、其處の海員周旋屋の内幕に通曉して居た事であつた。鹿角群の鑛山は尾去澤も小坂もよく知つて居た。釧路へは船で來たんださうで、札幌小樽の事は知らなかつたが、此處で一月許りも、眞砂町の或蕎麥屋の出前持をして居たと云ふ事は、町で大抵の人が知つて居た。無論これは方々に職業を求めて求め兼ねた末の事であるが、或日曜日の事、不圖思附いて木下主筆を其自宅に訪問した。初めは人相の惡い奴だと思つたが、黒木綿の大分汚なくなつた袴を穿いて居たのが、蕎麥屋の出前持をする男には珍らしいと云ふので、偏狹者《ひねくれもの》の主筆が買つてやつたのだと云ふ。
 主筆は時々、「野村君は支那語を知つてる癖に何故北海道あたりへ來たんだ?」と云ふが、其度渠は「支那人は臭くて可けません。」と云つた樣な答をして居た。

 北國の二月は暮れるに早い。四時半にはモウ共立病院の室々に洋燈《ランプ》の光が華やぎ出して、上履《うはぐつ》の辷る程拭込んだ廊下には食事の報知《しらせ》の拍子木が輕い反響を起して響き渡つた。
 と、右側の或室から、さらでだに前屈みの身體を一層屈まして、垢着いた首卷に頤を埋めた野村が飛び出して來た。廣い玄關には洋燈《ランプ》の光のみ眩しく照つて、人影も無い。渠は自暴糞《やけくそ》に足を下駄に突懸けたが、下駄は飜筋斗《もんどり》を打つて三尺許り彼方に轉んだ。
 以前の室から、また二人廊下に現れた。洋服を着た男は悠然と彼方へ歩いて行つたが、モ一人は白い兎の跳る樣に驅けて來ながら、
『野村さん/\、先刻お約束したの忘れないでよ。』と甲高い聲で云つて玄關まで來たが、渠の顏を仰ぐ樣にして笑ひ乍ら、『今度|欺《だま》したら承知しませんよ。眞實《
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