をつき出したのが、或時朝早く野村の室から出て便所へ行つた。「信者たる所以は彼處《あそこ》だ!」と竹山は考へた事があつた。
 渠は又、時々短かい七五調の詩を作つて竹山に見せた。讚美歌まがひの、些とも新らしい所のないものであつたが、それでも時として、一句二句、錐の樣に胸を刺す所があつた。韻文には適《む》かぬから小説を書いてみようと思ふと云ふのが渠の癖で、或時其書かうとして居る小説の結構を竹山に話した事もあつた。題も梗概も忘れて了つたが、肉と靈、實際と理想と、其四辻に立つて居る男だから、主人公の名は辻某とすると云つた事だけ竹山は記憶して居た。無論小説は、渠の胸の中で書かれて、胸の中で出版されて、胸の中で非常な好評を博して、到頭胸の中で忘られたのだ。一體が、机の前に坐る事のない男であつた。
 小説に書かうとした許りでなく、其詩に好んで題材とし、又其眞摯なる時によく話題に選ぶのは、常に「肉と靈との爭鬪《あらそひ》」と云ふ事であつた。肉と靈! 渠は何日《いつ》でも次の樣な事を云つて居た。曰く、「最初の二人が罪を得て樂園を追放された爲に、人間が苦痛の郷、涙の谷に住むと云ふのは可いが、そんなら何故神は、人間をして更に幾多の罪惡を犯さしめる機關、即ち肉と云ふものを人間に與へたのだらう?」又或時渠は、不意に竹山の室の障子を開けて、恐ろしいものに襲はれた樣に、凄い位眼を光らして、顏一體を波立つ程|苛々《いら/\》させ乍ら、「肉の叫び! 肉の叫び!」と云つて入つて來た事があつた。其頃の渠の顏は、今の樣に四六時中《しよつちう》痙攣《ひきつけ》を起してる事は稀であつた。
 渠は大抵の時は煙草代にも窮してる樣であつた。が、時として非常な贅澤をした。日曜に教會へ行くと云つて出て行つて、夜になるとグデングデンに醉拂つて歸る事もあつた。
 竹山は毎日の樣に野村と顏を會せて居たに不拘、怎したものか餘り親しくはなかつた。却つて、駿河臺では野村と同じ室に居て、牛込へは時々遊びに來た渠の從弟といふ青年に心を許して居たが、其青年は、頗る率直な、眞摯な、冐險心に富んで、何日でもニコニコ笑つてる男であつたけれど、談一度野村の事に移ると、急に顏を曇らせて、「從兄には弱つて了ひます。」と云つて居た。
 渠は又時々、郷里にある自分の財産を親類が怎とかしたと云つて、其訴訟の手續を同宿の法學生に訊いて居た事があつた。それから、或時宿の女中の十二位なのに催眠術を施《か》けて、自分の室に閉鎖《とぢこ》めて、半時間許りも何か小聲で頻りに訊ねて居た事があつた。隣室の人の洩れ聞いたんでは、何でも其財産問題に關した事であつたさうな。渠は平生、催眠術によつて過去の事は勿論、未來の事も豫言させる事が出來ると云つて居た。
 竹山の親しく見た野村良吉は、大略前述の樣のものであつたが、渠は同宿の人の間に頗る不信用であつた。野村は女學生を蕩《たら》して弄んで、おまけに金を捲上げて居るとか、牧師の細君と怪しい關係を結んでるさうだとか、好からぬ噂のみ多い中に、お定と云つて豐橋在から來た、些と美しい女中が時々渠の室に泊るという事と、宿の主婦――三十二三で、細面の、眼の表情《しほ》の滿干《さしひき》の烈しい、甚※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《どんな》急がしい日でも髮をテカテカさして居る主婦《おかみ》と、餘程前から通じて居るといふ事は、人々の間に殆んど確信されて居た。それから、其お定といふのが、或朝竹山の室の掃除に來て居て、二つ三つ戲談を云つてから、恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》話をした事があつた。
『野村さんて、餘程面白い方ねえ。』
『怎《どう》して?』
『怎《どう》してツて、ホホヽヽヽヽ。』
『可笑《をか》しい事があるんか?』
『あのね、……駿河臺に居る頃は隨分だつたわ。』
『何が?』
『何がツて、時々淫賣なんか伴れ込んで泊めたのよ。』
『其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》事をしたのか、野村君は?』
『默つてらつしやいよ、貴方《あなた》。』と云つたが、『だけど、云つちや惡いわね。』
『マア云つて見るさ。口出しをして止すツて事があるもんか。』
『何時《いつ》だつたか、あの方が九時頃に醉拂つて歸つたのよ、お竹さんて人伴れて。え、其人は其時初めてよ。それも可いけど、突然《いきなり》、一緒に居た政男さん(從弟)に怒鳴りつけるんですもの、政男さんだつて怒《おこ》りますわねえ。恰度空いた室があつたから、其晩だけ政男さんは其方へお寢《やす》みになつたんですけど、朝になつたら面白いのよ。』
『馬鹿な、怎したい?』
『野村さんがお金を出したら、要《い》らないつて云ふんですつて、其お竹さんと
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