だ。』
『ハア、然《さ》うですかねす。』
『然うなると君、帶廣支社にだつて二人位記者を置かなくちやならんからな。』
 渠の頭腦は非常に混雜して來た。嗚呼、俺を罷めさせられるには違ひないんだ、だが、竹山の云つてる處も道理だ。成程|然《さ》うなれば、まだ一人も二人も人が要る。だが、だが、ハテナ、一體社の擴張と俺と、甚※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《どんな》關係になつてるか知ら? 六頁になつて……釧路十勝二ケ國を……帶廣に支社を置いて、……田川が此方に居るとすると俺は要らなくなるし……田川が帶廣に行くと、然うすると雖も帶廣にやられるか知ら……ハテナ……恁《か》うと……それはまだ後の事だが……今日は怎《どう》うか知ら、今日は?……
『だがね、君。』、と稍あつてから低めの調子で竹山が云つた時、其聲は渠の混雜した心に異樣に響いて、「矢張今日限りだ」といふ考へが征矢《そや》の如く閃いた。
『だがね、君。僕は卒直に云ふが、』と竹山は聲を落して眼を外らした。『主筆には[#「には」は底本では「にい」]君に對して、餘り好い感情を有つてない樣な口吻が、時々見えぬでも無い。……』
 ソラ來た! と思ふと、渠は冷水を浴びた樣な氣がして、腋の下から汗がタラタラと流れだした。と同時に、怎やら頭の中の熱が一時に颯と引いた樣で、急に氣がスッキリとする。凝と目を据ゑて竹山を見た。
『今朝、小宮洋服店の主人が主筆ン所《とこ》へ行つたさうだがね。』
『何と云つて行きました?』不思《おもはず》。
『サア、田川が居たから詳しい話も聞かなかつたが……。』
 竹山は口を噤んで渠の顏を見た。
『竹山さん、私は、』と哀し氣な顫聲を絞つた。『私はモウ何處へも行く所のない男です。種々の事をやつて來ました。そして方々歩いて來ました。そして私はモウ行く所がありません。罷めさせられると其限《それきり》です。罷《や》めさせられると死にます。死ぬ許りです。餓ゑて死ぬ許りです。貴君方は餓ゑた事がないでせう。嗚呼、私は何處へ行つても大きな眼に睨められます。眠つてる人も私を視て居ます。そして、』と云つて、ギラギラさして居た目を竹山の顏に据ゑたが、『私は、自分の職責《しごと》は忠實《まじめ》にやつてる積りです。毎日出來るだけ忠實《まじめ》にやつてる積りです。毎晩町を歩いて、材料があるかあるかと、それ
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