目につく。けれども矢張|彼女《あれ》は俺のもんさ。末は怎でも今は俺のもんさ、彼女の擧動はまだ男を知つて居ないらしいが、那※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《あんな》に若く見える癖に二十二だつていふから、もう男の肌に觸れてるかも知れぬ。それも構はんさ。大抵の女は、表面こそ處女だけれども、モウ二十歳を越すと男を知つてるから喃。……
十時の時計を聞くと、渠は勘定を濟ませて蕎麥屋から出た。休坂《やすみざか》を上つて釧路座の横に來ると、十日程前に十軒許り燒けた火事跡に、雪の中の所々から、眞黒な柱や棟木が倒れた儘に頭を擡げて居た。白い波の中を海馬が泳いでる樣に。
少し行くと、右側のトある家の窓に火光《あかり》がさして居る。渠は其窓際へ寄つて、コツコツと硝子を叩いた。白い窓掛に手の影が移つて半分許り曳かれると、窓の下の炬燵に三十五六の蒼白い女が居る。
『蝶吉さんは未だ歸らないの?』
と優しい低い聲で云つた。
『え、未だ。』と女は窓外《そと》を覗いたが『マア野村さんですか。姐さん達は十二時でなくちや歸りませんの。』
これは彼がよく遊びに行く藝者の宅《うち》で、蝶吉と小駒の二人が、「小母《おば》さん」と呼ぶ此女を雇つて萬事の世話を頼んで居る。日暮から十二時過までは、何日でも此陰氣な小母さんが一人此炬燵にあたつてるので、野村は時として此小母さんを何とか仕ようと思ふ事がないでもない。女は窓掛に手をかけた儘、入れとも云はず窓外《そと》を覗いてるので、渠は構はず入つて見ようとも思つたが、何分にも先程から氣が悠然《ゆつたり》と寛大になつてるので、遂ぞ起した事のない「可哀さうだ。」といふ氣がした。
『又來るよ。』と云ひ捨てた儘、彼は窓際を離れて、「主婦《おかみ》はモウ大丈夫寢たナ。」と思ひ乍ら家路へ歩き出した。
四角《よつかど》を通越して浦見町が、米町になる。二町許り行くと、右は高くなつた西寺と呼ぶ眞宗の寺、それに向合つた六軒長屋の取突《とつつき》の端が渠の宿である。案の如く入口も窓も眞暗になつて居る。渠は成るべく音のしない樣に、入口の硝子戸を開《あ》けて、閉《た》てて、下駄を脱いで、上框の障子をも開けて閉てた。此室《こゝ》は長火鉢の置いてある六疊間。亭主は田舍の村役場の助役をして居るので、主婦と其甥に當る十六の少年と、三人の女兒とが、此室《こゝ》
前へ
次へ
全39ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング