を銀の歯車の様にグルグルと捲いて、ザザーツと怒鳴り散らして颯と退《ひ》く。退いた跡には、シーツと音して、潮の気《け》がえならぬ強い薫を撒く。

     二

 程経てから、『折角の日曜だツたのに……』と口の中で呟いて、忠志君は時計を出して見た。『兎に角僕はお先に失敬します。』と、楠野君の顔色を覗ひ乍ら、インバネスの砂を払ツて立つ。
 対手は唯『然《さう》ですか。』と謂ツただけで、別に引留めやうともせぬので、彼は聊か心を安んじたらしく、曇ツて日の見えぬ空を一寸|背身《そりみ》になツて見乍ら、『もう彼是十二時にも近いし、それに今朝|父親《おやぢ》が然《さう》言ツてましたから、先刻《さつき》話した校長の所へ、これから廻ツて見ようかと思《おもふ》んです。尤も恁《かう》いふ都会では、女なら随分資格の無い者も用《つか》ツてる様だけれど、男の代用教員なんか可成《なるべく》採用しない方針らしいですから、果して肇さんが其方へ入るに可《いい》か怎《どう》か、そら解りませんがね。然し大抵なら那《あ》の校長は此方《こつち》のいふ通りに都合してくれますよ。謂ツちや変だけれど、僕の父親《おやぢ》とは金銭上の関係もあるもんですからね。』
『ああ然ですか。何れ宜敷御尽力下さい。後藤君が此函館に来たについちや、何にしろ僕等先住者が充分尽すべき義務があるんですからね。』
『……まあ然です。兎に角僕は失敬します。肇さんも昼飯までには帰ツて来て呉れ給へ。ぢや失敬。』
 忠志君は急歩《いそぎあし》に砂を踏んで、磯伝ひに右へ辿ツて行く。残ツた二人は黙ツて其後姿を見て居る。忠志君は段々遠くなツて、目を細うくして見ると、焦茶のインバネスが薄鼠の中折を被ツて立ツて居る様に見える。
『あれが僕の従兄なんだよ、君。』と肇さんが謂ふ。
『頭が貧しいんだね。』
 忠志君の頭の上には、昔物語にある巨人の城廓の様に、函館山がガツシリした諸肩《もろがた》に灰色の天を支へて、いと厳そかに聳えて居る。山の中腹の、黒々とした松林の下には、春の一刷毛あざやかに、仄紅色《ほのくれなゐ》の霞の帯。梅に桜をこき交ぜて、公園の花は今を盛りなのである。木立の間、花の上、処々に現れた洋風の建築物《たてもの》は、何様異なる趣きを見せて、未だ見ぬ外国《とつくに》の港を偲ばしめる。
 不図、忠志君の姿が見えなくなツた。と見ると、今迄忠志君の歩いて居た辺《あたり》を、三台の荷馬車が此方《こちら》へ向いて進んで来る。浪が今しも逆寄《さかよ》せて、馬も車も呑まむとする。呀《あつ》[#「呀《あつ》」は底本では「冴《あつ》」]と思ツて肇さんは目を見張ツた。砕けた浪の白※[#「さんずい+區」、第3水準1−87−4]《しらあわ》は、銀の歯車を巻いて、見るまに馬の脚を噛み、車輪の半分《なかば》まで没《かく》した。小さいノアの方舟《はこぶね》が三つ出来る。浪が退《ひ》いた。馬は平気で濡れた砂の上を進んで来る。復浪が来て、今度は馬の腹までも噛まうとする。馬はそれでも平気である、相不変ズン/\進んで来る。肇さんは驚きの目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]ツて、珍らし気に此状《このさま》を眺めて居た。
『怎だえ、君、函館は可《いい》かね。』と、何時しか紙莨を啣へて居た楠野君が口を開いた。
『さうさね。昨日来たばかしで、昼寝が一度、夜寝が一度、飯を三度しか喰はん僕にや、まだ解らんよ。……だがね。まあ君|那《あれ》を見給へ。そら、復浪が来た。馬が輾《ころ》ぶぞ。そうら、……処が輾ばないんだ。矢張平気で以て進んで来る。僕は今急に函館が好になつたよ。喃《なあ》、君、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》豪《えら》い馬が内地になんか一疋だツて居るもんか。』
『ハハヽヽヽ』と楠野君は哄笑したが、『然しね君、北海道も今ぢや内地に居て想像する様な自由の天地ではないんだ。植民地的な、活気のある気風の多少残ツてゐる処もあるかも知れないが、此函館の如きは、まあ全然《まるで》駄目だね。内地に一番近い丈それ丈|不可《いかん》。内地の俗悪な都会に比して優ツてるのは、さうさね、まあ月給が多少高い位のもんだらう。ハハヽヽヽ。』
『そんなら君は何故三年も四年も居たんだ。』
『然《さう》いはれると立瀬が無くなるが、……詰り僕の方が君より遙かに意気地が無いんだね。……昨夜も話したツけが、僕の方の学校だツて、其内情を暴露して見ると実際情け無いもんだ。僕が這入ツてから既に足掛三年にもなるがね。女学校と謂へや君、若い女に教へる処だらう。若い女は年をとツて、妻になり、母になる。所謂家庭の女王になるんだらう。其処だ、君。僕は初めに其処を考へたんだ。現時の社会は到底破壊しなけりやならん。破壊しなけやならんが、僕等一人や二人が
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