《びつくり》して「竿持ツて来るのは止めるから、早く降りて呉れ、旦那でも来れあ俺が叱られるから。」と云ふ。「そんなら降りてやるが、降りてから竿なんぞ持ツて来るなら、石打付けてやるぞ。」ツて僕はズルズル辷り落ちた。そして、投げつけた林檎の大きいのを五つ六つ拾ツて、出て来て見ると誰も居ないんだ。何処まで逃げたんだか、馬鹿な奴等だと思ツて、僕は一人でそれを食ツたよ。実に美味《うま》かツたね。』
『二十三で未だ其気なんだから困ツ了《ちま》うよ。』
『其晩、窃《そつ》と一人で大きい笊《ざる》を持ツて行ツて、三十許り盗んで来て、僕に三つ呉れたのは、あれあ誰だツたらう、忠志君。』
忠志君は、苦い顔をして横を向く。
『尤も、忠志君の遣方《やりかた》の方が理屈に合ツてると僕は思ふ。窃盗《ぬすみ》と云ふものは、由来暗い所で隠密《こつそり》やるべきものなんだからね。アハヽヽヽ。』
『馬鹿な事を。』
『だから僕は思ふ。今の社会は鼠賊《そぞく》の寄合で道徳とかいふものは其鼠賊共が、暗中の隠密《こつそり》主義を保持してゆく為めの規約だ。鼠賊をして鼠賊以上の行為なからしめんが為めには法律といふ網がある。滑稽極まるさ、自分で自分を縛る繩を作ツて太陽の光が蝋燭の光の何百万倍あるから、それを仰ぐと人間の眼が痛くなるといふ真理を発見して、成るべく狭い薄暗い所に許り居ようとする。それで、日進月歩の文明はこれで厶《ござ》いと威張る。歴史とは進化の義なりと歴史家が説く。アハヽヽヽヽ。
学校といふ学校は、皆鼠賊の養成所で、教育家は、好な酒を飲むにも隠密《こつそり》と飲む。これは僕の実見した話だが、或る女教師は、「可笑《をか》しい事があツても人の前へ出た時は笑ツちや不可《いけ》ません。」と生徒に教へて居た。可笑しい時に笑はなけれあ、腹が減ツた時|便所《はばかり》へ行くんですかツて、僕は後で冷評《ひやか》してやツた。………………尤もなんだね、宗教家だけは少し違ふ様だ。仏教の方ぢや、髪なんぞ被らずに、凸凹《でこぼこ》の瘤頭を臆面もなく天日に曝して居るし、耶蘇《やそ》の方ぢや、教会の人の沢山集ツた所でなけれあ、大きい声出して祈祷なんぞしない。これあ然し尤もだよ。喧嘩するにしても、人の沢山居る所でなくちや張合がないからね。アハヽヽ。』
『アハヽヽヽ。』と、楠野君は大声を出して和した。
『処でだ。』と肇さんは起き上ツて、右手を延して砂の上の紙莨《タバコ》を取ツたが、直ぐまた投げる。『這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》社会だから、赤裸々な、堂々たる、小児《せうに》の心を持ツた、声の太い人間が出て来ると、鼠賊共、大騒ぎだい。そこで其種の声の太い人間は、鼠賊と一緒になツて、大笊を抱へて夜中に林檎畑に忍ぶことが出来ぬから、勢ひ吾輩の如く、天が下に家の無い、否《いや》、天下を家とする浪人になる。浪人といふと、チヨン髷頭やブツサキ羽織を連想して不可《いかん》が、放浪の民だね、世界の平民だね、――名は幾何《いくら》でもつく、地上の遊星といふ事も出来る。道なき道を歩む人とも云へる、コスモポリタンの徒と呼んで見るも可《いい》。ハ………。』
『そこでだ、若し後藤肇の行動が、後前《あとさき》見ずの乱暴で、其乱暴が生得《うまれつき》で、そして、果して真に困ツ了《ちま》ふものならばだね、忠志君の鼠賊根性は怎《どう》だ。矢張それも生得で、そして、ウー、そして、甚だ困つて了はぬものぢやないか。怎だい。従兄弟君、怒ツたのかい。』
『怒ツたツて仕様が無い。』と、稍|霎時《しばらく》してから、忠志君が横向いて云ツた。
『「仕様が無い」とは仕様が無い。それこそ仕様が無いぢやないか。』
『だツて、実際仕様が無いから喃《なあ》。』
『然し君は大分苦い顔をして居るぜ。一体その顔は不可《いけない》よ。笑ふなら腸《はらわた》まで見える様に口をあかなくちや不可《いかん》。怒るなら男らしく真赤になツて怒るさ。そんな顔付は側《はた》で見てるさへ気の毒だ。そら、そら、段々苦くなツてくる。宛然《まるで》洋盃《コツプ》に一昨日《をととひ》注いだビールの様だ。仕様のない顔だよ。』
『馬鹿な。君は怎《どう》[#「怎《どう》」は底本では「恁《どう》」]も、実際仕様がない。』
『復「仕様がない」か。アハヽヽヽ。仕様がない喃《なあ》。』
話が間断《とぎ》れると、ザザーツといふ浪の音が、急に高くなる。楠野君は、二人の諍《あらそ》ひを聞くでもなく、聞かぬでもなく、横になツた儘で、紙莨を吹かし乍ら、浪の穂頭を見渡して居る。鼻から出る煙は、一寸許りのところで、チヨイと渦を巻いて、忽ち海風に散ツてゆく。浪は相不変、活動写真の舞踏《ダンス》の歩調《あしどり》で、重《かさな》り重り沖から寄せて来ては、雪の舌
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