『忠志君の話の方が駄目にしても、何か必ず見付かるよ。』
『然か。』
『君は英語が巧い筈だツけね。』
『筈には筈だツけが、今は怎だかな。』
『まあ可さ。但し当分は先づ食ツて行けるだけでも、仕方がないから辛抱するさ。』
『委せたんだから、君が可い様にしてくれるさ。』
『秋まで辛抱してくれ給へ。そしたら何か必ず行《や》らう、ね君。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]。やるとも。』と云ツて、肇さんは復仰向になつた。
 会話《はなし》が断《き》れると、浪の音が急に高くなる。楠野君は俄かに思出したと云ツた様に、一寸時計を出して見たが、
『あ、もう十二時が遂《とう》に過ぎて居る。』と云ツて、少し頭を拈《ひね》ツて居たが、『怎だ君、今夜少し飲まうぢやないか。』
『酒をか?』
『これでも酒の味位は知ツてるぞ。』
『それぢや今は教会にも行かんだらう。』
『無論。……解放したんだ。』
『教会から信仰を。』
『一切の虚偽の中から自己をだ。』
『自己を! フム、其自己を、世の中から解放して了ふことが出来んだらうか。』
『世の中から?』
『然だ、世の中から辞職するんだ。』
『フム、君は其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》に死といふことを慕ふのかね。……だが、まあ兎に角今夜は飲まうや。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]。飲まう。』
『幾杯《いくら》飲める?』
『幾杯でも飲めるが、三杯《みつつ》やれば真赤になる。』
『弱いんだね。』
『オイ君、函館にも芸妓《げいしや》が居るか。』
『居るとも。』
『矢張《やつぱり》黒文字ツて云ふだらうか。』
『黒文字とは何だい。』
『ハハア、君は黒文字の趣味を知らんのだね。』
『何だ、其黒文字とは?』
『小楊枝のこツた。』
『小楊枝が怎したと云ふンだ。』
『黒文字ツて出すんださうだ。』
『小楊枝をか?』
『然さ、クドイ男だ喃。』
『だツて解らんぢやないか。』
『解ツてるよ、芸妓が黒文字ツて小楊枝を客の前に出すんだ。』
『だからさ、それに何処に趣味があるんだ。』
『楊枝入は錦かなんかの、素的に綺麗なものなさうだ。それを帯の間から引張り出して、二本指で、一寸《ちよい》と隅の所を拈ると、楊枝入の口へ楊枝が扇形に頭を並べて出すんださうだ。其楊枝が君、普通《あたりまへ》の奴より二倍位長いさう
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