、狹くて、全然《まるつきり》身動きがならん。蚤《のみ》だつて君、自由に跳《は》ねられやせんのだ。一寸何分と長《たけ》の定《きま》つた奴許りが、ギッシリとつめ込んである。僕の樣なもんでも今迄何囘反逆を企てたか解らん。反逆といツても、君の樣に痛快な事は自分一人ぢや出來んので詰り潔く身を退く位のものだがね。ところが、これでも多少は生徒間に信用もあるので、僕が去ると生徒まで動きやしないかといふ心配があるんだ。そこが私立學校の弱點《よわみ》なんだね。だから怎《どう》しても僕の要求を聽いてくれん。樣々な事をいつて留めるんだ。留められて見ると妙なもんで、遂また留まツて行《や》ツて見ようといふ樣な氣にもなる。と謂つた譯でグズ/\此三年を過したんだが、考へて見れや其間に自分のした事は一つもない。初めは、新聞記者上りといふので特別の注目をひいたもんだが、今ぢやそれすら忘られて了ツた。平凡と俗惡の中に居て、人から注意を享けぬとなツては、もう駄目だね。朝に下宿を出る時は希望もあり、勇氣もある。然しそれも職員室の扉《どあ》を開《あ》けるまでの事だ。一度其中へ這入つたら何ともいへぬ不快が忽ちにこみ上げて來る。何《ど》の顏を見ても、鹿爪らしい、横平な、圓みのない、陰氣で俗惡な、疲れた樣な、謂はゞ教員臭い顏ばかりなんぢやないか。奴等の顏を見ると、僕は恁《か》う妙に反抗心が昂《たか》まツて來て、見るもの聞くもの、何でも皆頭から茶化して見たい樣な氣持になるんだ。』
『茶化す?』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、眞面目になつて怒鳴る元氣も出ないやね。だから思ふ存分茶化してやるんだ。殊に君、女教員と來ちや全然箸にも棒にもかゝツたもんぢやない。犬だか猫だか、雀だか烏だか、……兎も角彼らが既に女でないだけは事實だね。女でなくなツたんだから、人間でもないんだ。謂はゞ一種の厭ふべき變性動物に過ぎんのだね。……それで生徒は怎《どう》かといふに、情無いもんだよ君、白い蓮華の蕾の樣な筈の、十四十五という少女《こども》でさへ、早く世の中の風に染ツて、自己を僞ることを何とも思はん樣になツて居る。僕は時々泣きたくなツたね。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、解る、解る。』
『然し、何だよ、君が故郷で教鞭を採る樣になつてからの手紙には、僕は非常に勵まされた事がある。嘗ては自らナポレオンを以て任じた君が、月給八圓の代用教員になツたのでさへ一つの教訓だ。況《ま》してそれが、朝は未明から朝讀、夜は夜で十一時過ぎまでも小兒等と一緒に居て、出來るだけ多くの時間を小兒等のために費やすのが滿足だと謂ふのだから、宛然《さながら》僕の平生の理想が君によつて實行された樣な氣がしたよ。あれあ確か去年の秋の手紙だツたね。文句は僕がよく暗記して居る、そら、「僕は讀書を教へ、習字を教へ、算術を教へ、修身のお話もするが、然し僕の教へて居るのは蓋し之等ではないだらうと思はれる。何を教へて居るのか、自分にも明瞭《はつきり》解らぬ。解らぬが、然し何物かを教へて居る。朝起きるから夜枕につくまで、一生懸命になツて其何物かを教へて居る。」と書いてあつたね。それだ、それだ。完《ま》ツたくそれだ、其何物かだよ。』
『噫、君、僕は怎《どう》も樣々思出されるよ。……だが、何だらうね、僕の居たのは田舍だツたから多少我儘も通せたやうなものの、恁《かう》いふ都會めいた場所《ところ》では、矢張駄目だらうね。僕の一睨みですくんで了ふやうな校長も居まいからね。』
『駄目だ、實際駄目だよ。だから僕の所謂改造なんていふ漸進主義は、まだるツこくて效果《きゝめ》が無いのかも知れんね。僕も時々然思ふ事があるよ。「明朝午前八時を期し、予は一切の責任を負ふ決心にてストライキを斷行す。」といふ君の葉書を讀んだ時は、僕は君、躍り上ツたね。改造なんて駄目だ。破壞に限る。破壞した跡の燒野には、君、必ず新しい勢の可《い》い草が生えるよ。僕はね。宛然《まるで》自分が革命でも起した樣な氣で、大威張で局へ行ツて、「サカンニヤレ」といふ那《あ》の電報を打ツたんだ。』
 肇さんは俯向いて居て、暫し默して居たが、
『ストライキか、アハヽヽヽ。』と突然大きな聲を出して笑つた。大きな聲ではあつたが、然し何處か淋しい聲であつた。
『昨夜君が歸ツてから、僕は怎《どう》しても眠れなかツた。』
と楠野君の聲は沈む。『一體村民の中に、一人でも君の心を解してる奴があツたのかい。』『不思議にも唯一人、君に話した役場の老助役よ。』
『血あり涙あるを口癖にいふ老壯士か。』
『然《さう》だ。僕が四月の初めに辭表を出した時、村教育の前途を奈何《いかん》と謂ツて、涙を揮ツて留めたのも彼。それならばといツて僕の提出した條件に、先づ第一に賛成したのも彼。其條件が遂に行はれずして、僕が最後の通告を諸方へ飛ばし、自ら令を下して全校の生徒を休學せしめた時から、豫定の如く免職になり、飄然として故郷の山河を後にした時まで、始終僕の心を解して居てくれたのは、實に唯彼の老助役一人だツたのだ。所謂知己だね。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、それや知己だね。……知己には知己だが、唯一人の知己だね。』
『怎《どう》して二人と無いもんだらう。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》……』
『一人よりは二人、二人よりは三人、三人よりは四人、噫。』と、肇さんは順々に指を伏せて見たが、『君。』と強く謂ツて、其手でザクリと砂を攫んだ。『僕も泣くことがあるよ。』と聲を落す。
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》。』
『夜の九時に青森に着いて、直ぐに船に乘ツたが、翌朝でなけれや立たんといふ。僕は一人甲板に寢て厭な一夜を明かしたよ。』
『……………………』
『感慨無量だツたね。……眞黒な雲の間から時々片破月の顏を出すのが、恰度やつれた母の顏の樣ぢやないか。……母を思へば今でも泣きたくなるが。……終《しまひ》にや山も川も人間の顏もゴチャ交ぜになつて、胸の中が宛然《さながら》、火事と洪水と一緒になッた樣だ。……………僕は一晩泣いたよ、枕にして居た帆綱の束に噛りついて泣いたよ。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》』
『海の水は黒かツた。』
『黒かつたか。噫。黒かつたか。』と謂ツて、楠野君は大きい涙を砂に落した。『それや不可《いかん》。止せ、後藤君。自殺は弱い奴等のする事《こツ》た。……死ぬまで行《や》れ。否《いや》、殺されるまでだ。……』
『だから僕は生きてるぢやないか。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》』
『死ぬのは不可《いかん》が、泣くだけなら可《いゝ》だらう。』
『僕も泣くよ。』
『涙の味は苦《にが》いね。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》』
『實に苦いね。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]』
『戀の涙は甘いだらうか。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]』
『世の中にや、味の無い涙もあるよ。屹度あるよ。』

      三

『君の顏を見ると、怎《どう》したもんだか僕あ氣が沈む。奇妙なもんだね。敵の眞中に居れあ元氣がよくて味方と二人ツ限《き》りになると、泣きたくなツたりして。』
 肇さんは、恁《かう》云ツて、温和《あたゝか》い微笑を浮かべ乍ら、楠野君の顏を覗き込んだ。
『僕も然《さう》だよ。日頃はこれでも仲々意氣の盛んな方なんだが、昨夜君と逢ツてからといふもの、怎《どう》したもんか意氣地の無い事を謂ひたくなる。』
『一體|何方《どつち》が先きに弱い音を吹いたんだい。』
『君でもなかツた樣だね。』
『君でもなかツた樣だね。』 
『何方《どつち》でも無いのか。』
『何方でも無いんだ。ハハヽヽヽヽ。』と笑つたが、『胸に絃《いと》があるんだよ。君にも、僕にも。』
『これだね。』と云ツて、楠野君は礑《はた》と手を拍《う》つ。
『然だ、同じ風に吹かれて一緒に鳴り出したんだ。』
 二人は聲を合せて元氣よく笑ツた。
『兎も角|壯《さか》んにやらうや。』と楠野君は胸を張る。
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]。やるとも。』
『僕は少し考へた事もあるんだ。怎《どう》せ君は、まあ此處に腰を据ゑるんだらう。』
『喰ひ詰めるまで置いて貰はう。』
『お母さんを呼ばう。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]。呼ばう。』
『呼んだら來るだらう。』
『來てから何を喰はせる。』
『那※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》心配は不要《いらん》よ。』
『不要《いらない》こともない。僕の心配は天下にそれ一つだ。今まで八圓ぢや仲々喰へなかつたからね。』
『大丈夫だよ。那※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》事は。』
『然《さう》かへ。』
『まあ僕に委せるさ。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、任せよう。』
『忠志君の話の方が駄目にしても、何か必ず見付けるよ。』
『然か。』
『君は英語が巧い筈だツけね。』
『筈には筈だツけが、今は怎《どう》だかな。』
『まあ可《いゝ》さ。但し當分は先づ食ツて行けるだけでも、仕方がないから辛抱するさ。』
『委《まか》せたんだから、君が可《い》い樣にしてくれるさ。』
『秋まで辛抱してくれ給へ。そしたら何か必ず行《や》らう、ね君。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]。やるとも。』と云ツて、肇さんは復仰向になつた。
 會話《はなし》が斷《き》れると、浪の音が急に高くなる。楠野君は俄かに思出したと云ツた樣に、一寸時計を出して見たが。
『あ、もう十二時が遂《とう》に過ぎて居る。』と云ツて、少し頭を捻《ひね》ツて居たが、『怎《どう》だ君、今夜少し飮まうぢやないか。』
『酒をか?』
『これでも酒の味位は知ツてるぞ。』
『それぢや今は教會にも行かんだらう。』
『無論、……解放したんだ。』
『教會から信仰を。』
『一切の虚僞の中から自己をだ。』
『自己を! フム、其自己を、世の中から解放して了ふことが出來んだらうか。』
『世の中から?』
『然《さう》だ、世の中から辭職するんだ。』
『フム、君は其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》に死といふことを慕ふのかね。……だが、まあ兎も角今夜は飮まうや。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》。飮まう。』
『幾杯《いくら》飮める?』
『幾杯でも飮めるが、三杯《みツつ》やれば眞赤になる。』
『弱いんだね。』
『オイ君、凾館にも藝妓が居るか。』
『居るとも。』
『矢張黒文字ツて云ふだらうか。』
『黒文字とは何だい。』
『ハハア、君は黒文字の趣味を知らんのだね。』
『何だ、其黒文字とは?』
『小楊枝のこツた。』
『小楊枝が怎《どう》したと云ふんだ。』
『黒文字ツて出すんださうだ。』
『小楊枝をか?』
『然《さう》さ、クドイ男だ喃《なあ》。』
『だツて解らんぢやないか。』
『解ツてるよ、藝妓が黒文字ツて小楊枝を客の前に出すんだ。』
『だからさ、それに何處に趣味があるんだ。』
『楊枝入は錦かなんかの、素的に綺麗なものなさうだ。それを帶の間から引張り出して、二本指で、一寸《ちよい》と隅の所を捻《ひね》ると、楊枝入の口へ楊枝が扇形に頭を並べて出すんださうだ。其楊枝が君、普通《あたりまへ》の奴より二倍位長いさうだぜ。』
『出す時黒文字ツて云ふんだね。』
『さうだ。』
『面白いことを云ふね。』
『面白いだらう。』
『何處で那※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》ことを覺えたんだ?』
『役場の書記から聞いた。』
『ハハア、兎も角今夜は飮まうよ。』

      四

『怎《どう》だ、ソロソロ歸るとしよう。』と云ツて、楠野君は傍らに投げ出してあツた風呂敷を引張り寄せた。風呂敷の中から、大きい夏
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