つら》の皺を作つて、眞白の雪の舌が出る。出たかと見ると、其舌がザザーッといふ響きと共に崩れ出して、磯を目がけて凄まじく、白銀の齒車を捲いて押寄せる。警破《すは》やと思ふ束の間に、逃足立てる暇もなく、敵は見ン事|颯《さつ》と退《ひ》く。退いた跡には、砂の目から吹く潮の氣が、シーッと清《すゞ》しい音を立てゝ、えならぬ強い薫を撒く。
『一體肇さんと、僕とは小兒の時分から合はなかつたよ。』と忠志君は復不快な調子で口を切る。『君の亂暴は、或は生來《うまれつき》なのかも知れないね。そら、まだお互に郷里《くに》に居て、尋常科の時分だ。僕が四年に君が三年だつたかな、學校の歸途《かへり》に、そら、酒屋の林檎畑へ這入《はい》つた事があつたらう。何でも七八人も居たつた樣だ。………………。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、さうだ、僕も思出す。發起人が君で、實行委員が僕。夜になつてからにしようと皆《みんな》が云ふのを構ふもんかといふ譯で、眞先に垣を破つたのが僕だ。續いて一同《みんな》乘り込んだが、君だけは見張をするつて垣の外に殘つたつけね。眞紅《まつか》な奴が枝も裂けさうになつてるのへ、眞先に僕が木登りして、漸々《やう/\》手が林檎に屆く所まで登つた時「誰だ」つてノソ/\出て來たのは、そら、あの畑番の六助爺だよ。樹下《した》に居た奴等は一同《みんな》逃げ出したが、僕は仕方が無いから默つて居た。爺奴《ぢゞいめ》嚇《おどか》す氣になつて、「竿持つて來て叩き落すぞつ。」つて云ふから「そんな事するなら恁《か》うして呉れるぞ。」つて、僕は手當り次第林檎を採《と》つて打付《ぶつつ》けた。爺|吃驚《びつくり》して「竿持つて來るのは止めるから、早く降りて呉れ、旦那でも來れあ俺が叱られるから。」と云ふ。「そんなら降りてやるが、降りてから竿なんぞ持つて來るなら、石|打付《ぶつつ》けてやるぞ。」つて僕はズル/\辷り落ちた。そして、投げつけた林檎の大きいのを五つ六つ拾つて、出て來て見ると誰も居ないんだ。何處まで逃げたんだか、馬鹿な奴等だと思つて、僕は一人でそれを食つたよ。實に美味《うま》かつたね。』
『二十三で未だ其氣なんだから困つちまうよ。』
『其晩、窃《そつ》と一人で大きい笊《ざる》を持つて行つて、三十許り盜んで來て、僕に三つ呉れたのは、あれあ誰だつたらう、忠志君。』
忠志君は苦い顏をして横を向く。
『尤も、忠志君の遣方《やりかた》の方が理窟に合つてると僕は思ふ。窃盜と云ふものは、由來暗い所で隱密《こつそり》やるべきものなんだからね。アハヽヽヽ。』
『馬鹿な事を。』
『だから僕は思ふ。今の社會は鼠賊の寄合で道徳とかいふものは其鼠賊共が、暗中の隱密《こつそり》主義を保持してゆく爲めの規約だ。鼠賊をして鼠賊以上の行爲なからしめんが爲めには、法律という網がある。滑稽極まるさ、自分で自分を縛る繩を作つて。太陽の光が蝋燭の光の何百何倍あるから、それを仰ぐと人間の眼が痛くなるといふ眞理を發見して、成るべく狹い薄暗い所に許り居ようとする。それで、日進月歩の文明はこれで厶《ござ》いと威張る。歴史とは進化の義なりと歴史家が説く。アハヽヽヽ。
學校といふ學校は、皆鼠賊の養成所で、教育家は、好な酒を飮むにも隱密《こつそり》と飮む。これは僕の實見した話だが、或る女教師は、「可笑《をか》しい事があつても人の前へ出た時は笑つちや不可《いけ》ません。」と生徒に教へて居た。可笑《をか》しい時に笑はなけれあ、腹が減つた時|便所《はゞかり》へ行くんですかつて、僕は後で冷評《ひやか》してやつた。………………尤も、なんだね、宗教家だけは少し違ふ樣だ。佛教の方ぢや、髮なんぞ被《かぶ》らずに、凸凹《でこぼこ》[#「凸凹」は底本では「凹凸」]の瘤頭《こぶあたま》を臆面もなく天日《てんぴ》に曝して居るし、耶蘇の方ぢや、教會の人の澤山集つた所でなけれあ、大きい聲を出して祈祷なんぞしない。これあ然し尤もだよ。喧嘩するにしても、人の澤山居る所でなくちや張合がないからね。アハヽヽ。』
『アハヽヽヽ。』と楠野君は大聲を出して和した。
『處でだ。』と肇さんは起き上つて、右手を延して砂の上の紙莨を取つたが、直ぐまた投げる。『這※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》社會だから、赤裸々な、堂々たる、小兒の心を持つた、聲の太い人間が出て來ると、鼠賊共、大騷ぎだい。そこで其種の聲の太い人間は、鼠賊と一緒になつて、大笊を抱へて夜中に林檎畑に忍ぶことが出來ぬから、勢ひ吾輩の如く、天《あま》が下に家の無い、否、天下を家とする浪人になる。浪人といふと、チョン髷頭やブッサキ羽織を連想して不可《いかん》が、放浪の民だね。世界の平民だね。――名は幾何《いくら》でもつく、地上の遊星といふ事も出來る。道なき道を歩む人とも云へる。コスモポリタンの徒《と》と呼んで見るも可《いゝ》。ハヽヽヽ。』
『そこでだ、若し後藤肇の行動が、後前《あとさき》見ずの亂暴で、其亂暴が生來《うまれつき》で、そして、果して眞に困つちまふものならばだね、忠志君の鼠賊根性は怎《どう》だ。矢張それも生來で、そして、ウー、そして、甚だ困つて了はぬものぢやないか。怎だい。從兄弟君、怒つたのかい。』
『怒つたつて仕樣が無い。』と稍霎時《ややしばらく》してから、忠志君が横向いて云つた。
『「仕樣が無い」とは仕樣が無い。それこそ仕樣が無いぢやないか。』
『だつて、實際。仕樣が無いから喃《なあ》。』
『然し君は大分苦い顏をして居るぜ。一體その顏は不可《いけない》よ。笑ふなら腸まで見える樣に口をあかなくちや不可《いかん》。怒るなら男らしく眞赤になつて怒るさ。そんな顏付は側で見てるさへ氣の毒だ。そら、そら段々|苦《にが》くなツて來る。宛然《まるで》洋盃《コツプ》に一昨日《おとゝひ》注いだビールの樣だ。仕樣のない顏だよ。』
『馬鹿な。君は怎《どう》も、實際仕樣がない。』
『復「仕樣がない」か。アハヽヽヽ。仕樣が無い喃《なあ》』
話が途斷《とぎ》れると、ザザーッといふ浪の音が、急に高くなる。楠野君は、二人の諍《あらそ》ひを聞くでもなく聞かぬでもなく、横になつた儘で、紙莨を吹かし乍ら、浪の穗頭を見渡して居る。鼻から出る煙は、一寸ばかりのところで、チョイと渦《うづ》を卷いて、忽ち海風に散つてゆく、浪は相不變《あひかわらず》、活動寫眞の舞踊《ダンス》の歩調《あしどり》で、重《かさな》り重り沖から寄せて來ては、雪の舌を銀の齒車の樣にグルグルと卷いて、ザザーッと怒《ど》鳴り散らして颯と退《ひ》く、退いた跡には、シーッと音して、潮の氣《け》がえならぬ強い薫を撒く。
二
程經てから、『折角の日曜だツたのに……』と口の中で呟《つぶや》いて、忠志《ただし》君は時計を出して見た。『兎に角僕はお先に失敬します。』と楠野《くすの》君の顏色を覗《うかゞ》ひ乍ら、インバネスの砂を拂つて立つ。
對手は唯『然《さ》うですか。』と謂ツただけで、別に引留めようともせぬので、彼は聊か心を安んじたらしく、曇つて日の見えぬ空を一寸|背身《そりみ》になツて見乍ら、『もう彼是十二時にも近いし、それに今朝|親父《おやぢ》が然《さう》言つてましたから、先刻話した校長の所へ、これから※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて見ようかと思ふんです。尤も恁《かう》いふ都會では、女なら隨分資格の無い者も用《つか》ツてる樣だけれど、男の代用教員なんか可成《なるべく》採用しない方針らしいですから、果して肇さんが其方へ入るに可《いゝ》か怎《どう》か、そら解りませんがね。然し大抵なら那《あ》の校長は此方《こツち》のいふ通りに都合してくれますよ。謂ツちや變だけれど、僕の親父《おやぢ》とは金錢上の關係もあるもんですからね。』
『あゝ然ですか。何れ宜敷《よろしく》御盡力下さい。後藤君が此函館に來たについちや、何しろ僕等先住者が充分盡すべき義務があるんですからね。』
『…………まあ然です。兎に角僕は失敬します。肇さんも晝飯までには歸つて來て呉れ給へ。ぢや失敬。』
忠志君は急歩《いそぎあし》に砂を踏んで、磯傳ひに右へ辿つて行く。殘つた二人は默つて其後姿を見て居る。忠志君は段々遠くなつて、目を細うくして見ると、焦茶のインバネスが薄鼠の中折を被つて立ツて居る樣に見える。
『あれが僕の從兄なんだよ、君。』と肇さんが謂ふ。
『頭が貧しいんだね。』
忠志君の頭の上には、昔物語にある巨人の城郭の樣に、函館山がガッシリした諸肩《もろかた》に灰色の天を支へて、いと嚴そかに聳えて居る。山の中腹の、黒々とした松林の下には、春の一|刷毛《はけ》あざやかに、仄紅色《ほのくれなゐ》の霞の帶、梅に櫻をこき交ぜて、公園の花は今を盛りなのである。木立の間、花の上、處々に現れた洋風の建築物《たてもの》は、何樣異なる趣きを見せて、未だ見ぬ外國の港を偲ばしめる。
不圖、忠志君の姿が見えなくなつた。と見ると、今まで忠志君の歩いて居た邊を、三臺の荷馬車が此方へ向いて進んで來る。浪が今しも逆寄せて、馬も車も呑まむとする。呀《あツ》と思ツて肇さんは目を見張ツた。碎けた浪の白※[#「さんずい+區」、第3水準1−87−4]《しらあわ》は、銀の齒車を卷いて、見るまに馬の脚を噛み、車輪の半分まで沒した。小さいノアの方舟《はこぶね》が三つ出來る。浪が退《ひ》いた。馬は平氣で濡れた砂の上を進んで來る。復浪が來て、今度は馬の腹まで噛まうとする。馬はそれでも平氣である。相不變《あひかはらず》ズン/\進んで來る。肇さんは驚きの目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]つて、珍らし氣に此状《このさま》を眺めて居た。
『怎《どう》だへ、君、函館は可《いゝ》かね。』と、何時しか紙莨を啣へて居た楠野君が口を開いた。
『さうさね。昨日來たばかしで、晝寢が一度、夜寢が一度、飯を三度しか喰はん僕にや、まだ解らんよ。……だがね。まあ君|那《あれ》を見給へ。そら、復浪が來た。馬が輾《ころ》ぶぞ。そうら、……處が輾ばないんだ。矢張平氣で以て進んで來る。僕は今急に函館が好になつたよ。喃《なあ》、君、那※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《あんな》豪《えら》い馬が内地になんか一疋だツて居るもんか。』
『ハハヽヽヽ』と楠野君は哄笑したが、『然しね君、北海道も今ぢや内地に居て想像する樣な自由の天地ではないんだ。植民地的な、活氣のある氣風の多少殘つてる處もあるかも知れないが、此函館の如きは、まあ全然《まるで》駄目だね。内地に一番近い丈それ丈|不可《いかん》。内地の俗惡な都會に比して優ツてるのは、さうさね、まあ月給が多少高い位のもんだらう。ハハヽヽヽ。』
『そんなら君は何故三年も四年も居たんだ。』
『然《さう》いはれると立瀬《たつせ》が無くなるが、……詰り僕の方が君より遙かに意氣地が無いんだね。……昨夜も話したツけが、僕の方の學校だツて、其内情を暴露して見ると、實際情け無いもんだ。僕が這入つてから既に足掛三年にもなるがね。女學校と謂へや君、若い女に教へる處だらう。若い女は年をとツて、妻になり、母になる、所謂家庭の女王になるんだらう。其處だ、君。僕は初めに其處を考へたんだ。現時の社會は到底破壞しなけやならん。破壞しなけやならんが、僕等一人や二人が、如何に聲を大きくして叫んだとて、矢張駄目なんだね。それよりは、年の若い女といふものは比較的感化し易い、年若い女に教へる女學校が、乃ち僕等の先づ第一に占領すべき城だと考へたね。若い女を改造するのだ。改造された女が妻となり、母となる。家庭の女王となる。……なるだらう、必ず。詰り唯一人の女を救ふのが、其家庭を改造し、其家庭の屬する社會を幾分なりとも改造することが出來る譯なんだ。僕は然思つたから、勇んで三十五圓の月給を頂戴する女學校の教師になツたんだ。』
『なツて見たら、燐寸箱《マツチばこ》の樣だらう。學校といふものは。』
『燐寸箱! 然だ、燐寸箱だよ、全《まつ》たく。狹くて
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