ものだ。此忠志君も、美味い物を食ふと見えて平たい顏の血色がよい。
 蟇の如く胡坐をかいた男は、紙莨《たばこ》の煙をゆるやかに吹いて、靜かに海を眺めて居る。凹んだ眼窩の底に陰翳のない眼が光つて、見るからに男らしい顏立の、年齡は二十六七でがなあらう。浮いたところの毫《すこし》もない、さればと云つて心鬱した不安の状もなく、悠然として海の廣みに眼を放《や》る體度は、雨に曝され雪に撃たれ、右から左から風に攻《せ》められて、磯馴の松の偏曲もせず、矗乎《ぬつ》と生ひ立つた杉の樹の樣に思はれる。海の彼方には津輕の山が浮んで、山の左から汐首の岬まで、灰色の空を被いだ太平洋が、唯一色の強い色を湛へて居る。――其水天髣髴の邊にポッチリと黒く浮いてるのは、汽船であらう。無論|駛《はし》つて居るには違ひないが、此處から見ては、唯ポッチリとした黒い星、動いてるのか動かぬのか、南へ駛るのか北へ向くのか、少しも解らぬ。此方へ來るなと思へば、此方へ來る樣に見える。先方《あつち》へ行くなと思へば、先方へ行く樣に見える。何處の港を何日《いつ》發《た》つて、何處の港へ何日着くのか。發《た》つて來る時には、必ず、アノ廣い胸の底
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