蜜柑が一つ輾《ころ》げ出す。『アまだ一つ殘つて居ツた。』
『僕はまだ歸らないよ。君先きに行ツて呉れ給へ。』
『一緒に行かうや。一人なら路も解るまい。』
『大丈夫だよ。』
『だツて十二時が過ぎて了ツたぢやないか。』
『腹が減ツたら歸ツてゆくよ。』
『さうか。』と云ツたが、楠野君はまだ何となく危《あやぶ》む樣子。
『大丈夫だといふに。……緩《ゆつ》くり晝寢でもしてゆくから、構はず歸り給へ。』
『そんなら餘り遲くならんうちに歸り給へ。今夜は僕の方で誘ひに行くよ。』
 古洋服を着た楠野君の後姿が、先刻忠志君の行ツたと同じ浪打際を、段々遠ざかツてゆく。肇さんは起き上ツて、凝然《ぢつ》と其友の後姿を見送ツて居たが、浪の音と磯の香に犇々と身を包まれて、寂しい樣な、自由になツた樣な、何とも云へぬ氣持になツて、いひ知らず涙ぐんだ。不圖、先刻の三臺の荷馬車を思出したが、今は既に影も見えない。此處まで來たとは氣が附かなかツたから、多分浪打際を離れて町へ這入つて行ツたのであらう。一彎の長汀ただ寂寞として、碎くる浪の咆哮が、容赦もなく人の心を擘《つん》ざく。黒一點の楠野君の姿さへ、見る程に見る程に遠ざかツて行く
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