ずして、僕が最後の通告を諸方へ飛ばし、自ら令を下して全校の生徒を休學せしめた時から、豫定の如く免職になり、飄然として故郷の山河を後にした時まで、始終僕の心を解して居てくれたのは、實に唯彼の老助役一人だツたのだ。所謂知己だね。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、それや知己だね。……知己には知己だが、唯一人の知己だね。』
『怎《どう》して二人と無いもんだらう。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》……』
『一人よりは二人、二人よりは三人、三人よりは四人、噫。』と、肇さんは順々に指を伏せて見たが、『君。』と強く謂ツて、其手でザクリと砂を攫んだ。『僕も泣くことがあるよ。』と聲を落す。
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》。』
『夜の九時に青森に着いて、直ぐに船に乘ツたが、翌朝でなけれや立たんといふ。僕は一人甲板に寢て厭な一夜を明かしたよ。』
『……………………』
『感慨無量だツたね。……眞黒な雲の間から時々片破月の顏を出すのが、恰度やつれた母の顏の樣ぢやないか。……母を思へば今でも泣きたくなるが。……終《しまひ》にや山も川も人間の顏もゴチャ交ぜになつて、胸の中が宛然《さながら》、火事と洪水と一緒になッた樣だ。……………僕は一晩泣いたよ、枕にして居た帆綱の束に噛りついて泣いたよ。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》』
『海の水は黒かツた。』
『黒かつたか。噫。黒かつたか。』と謂ツて、楠野君は大きい涙を砂に落した。『それや不可《いかん》。止せ、後藤君。自殺は弱い奴等のする事《こツ》た。……死ぬまで行《や》れ。否《いや》、殺されるまでだ。……』
『だから僕は生きてるぢやないか。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》』
『死ぬのは不可《いかん》が、泣くだけなら可《いゝ》だらう。』
『僕も泣くよ。』
『涙の味は苦《にが》いね。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》』
『實に苦いね。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]』
『戀の涙は甘いだらうか。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]』
『世の中にや、味の無い涙もあるよ。屹度あるよ。』

      三

『君の顏を見ると、怎《どう》したもんだか僕あ氣が沈む。奇妙なもんだね。敵の眞中に居れあ元氣がよくて味方と二人ツ限《き》りになると、泣きたくなツたりして。』
 肇さんは、恁《かう》云ツて、温和《あたゝか》い微笑を浮かべ乍ら、楠野君の顏を覗き込んだ。
『僕も然《さう》だよ。日頃はこれでも仲々意氣の盛んな方なんだが、昨夜君と逢ツてからといふもの、怎《どう》したもんか意氣地の無い事を謂ひたくなる。』
『一體|何方《どつち》が先きに弱い音を吹いたんだい。』
『君でもなかツた樣だね。』
『君でもなかツた樣だね。』 
『何方《どつち》でも無いのか。』
『何方でも無いんだ。ハハヽヽヽヽ。』と笑つたが、『胸に絃《いと》があるんだよ。君にも、僕にも。』
『これだね。』と云ツて、楠野君は礑《はた》と手を拍《う》つ。
『然だ、同じ風に吹かれて一緒に鳴り出したんだ。』
 二人は聲を合せて元氣よく笑ツた。
『兎も角|壯《さか》んにやらうや。』と楠野君は胸を張る。
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]。やるとも。』
『僕は少し考へた事もあるんだ。怎《どう》せ君は、まあ此處に腰を据ゑるんだらう。』
『喰ひ詰めるまで置いて貰はう。』
『お母さんを呼ばう。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]。呼ばう。』
『呼んだら來るだらう。』
『來てから何を喰はせる。』
『那※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》心配は不要《いらん》よ。』
『不要《いらない》こともない。僕の心配は天下にそれ一つだ。今まで八圓ぢや仲々喰へなかつたからね。』
『大丈夫だよ。那※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》事は。』
『然《さう》かへ。』
『まあ僕に委せるさ。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、任せよう。』
『忠志君の話の方が駄目にしても、何か必ず見付けるよ。』
『然か。』
『君は英語が巧い筈だツけね。』
『筈には筈だツけが、今は怎《どう》だかな。』
『まあ可《いゝ》さ。但し當分は先づ食ツて行けるだけでも、仕方がないから辛抱するさ。』
『委《まか》せたんだから、君が可《い》い樣にしてくれるさ。』
『秋まで辛抱してくれ給へ。そしたら何か必ず行《や》らう、ね君。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]。やるとも。』と云ツて、肇さんは復仰向になつた。
 會話《はなし》が斷《き》れると、浪の
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