音が急に高くなる。楠野君は俄かに思出したと云ツた樣に、一寸時計を出して見たが。
『あ、もう十二時が遂《とう》に過ぎて居る。』と云ツて、少し頭を捻《ひね》ツて居たが、『怎《どう》だ君、今夜少し飮まうぢやないか。』
『酒をか?』
『これでも酒の味位は知ツてるぞ。』
『それぢや今は教會にも行かんだらう。』
『無論、……解放したんだ。』
『教會から信仰を。』
『一切の虚僞の中から自己をだ。』
『自己を! フム、其自己を、世の中から解放して了ふことが出來んだらうか。』
『世の中から?』
『然《さう》だ、世の中から辭職するんだ。』
『フム、君は其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》に死といふことを慕ふのかね。……だが、まあ兎も角今夜は飮まうや。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》。飮まう。』
『幾杯《いくら》飮める?』
『幾杯でも飮めるが、三杯《みツつ》やれば眞赤になる。』
『弱いんだね。』
『オイ君、凾館にも藝妓が居るか。』
『居るとも。』
『矢張黒文字ツて云ふだらうか。』
『黒文字とは何だい。』
『ハハア、君は黒文字の趣味を知らんのだね。』
『何だ、其黒文字とは?』
『小楊枝のこツた。』
『小楊枝が怎《どう》したと云ふんだ。』
『黒文字ツて出すんださうだ。』
『小楊枝をか?』
『然《さう》さ、クドイ男だ喃《なあ》。』
『だツて解らんぢやないか。』
『解ツてるよ、藝妓が黒文字ツて小楊枝を客の前に出すんだ。』
『だからさ、それに何處に趣味があるんだ。』
『楊枝入は錦かなんかの、素的に綺麗なものなさうだ。それを帶の間から引張り出して、二本指で、一寸《ちよい》と隅の所を捻《ひね》ると、楊枝入の口へ楊枝が扇形に頭を並べて出すんださうだ。其楊枝が君、普通《あたりまへ》の奴より二倍位長いさうだぜ。』
『出す時黒文字ツて云ふんだね。』
『さうだ。』
『面白いことを云ふね。』
『面白いだらう。』
『何處で那※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》ことを覺えたんだ?』
『役場の書記から聞いた。』
『ハハア、兎も角今夜は飮まうよ。』
四
『怎《どう》だ、ソロソロ歸るとしよう。』と云ツて、楠野君は傍らに投げ出してあツた風呂敷を引張り寄せた。風呂敷の中から、大きい夏
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