挨拶したら可いものかと胸を痛めながら悄然《すごすご》と歩いてゐた。源助は、先方《むかう》でも真《ほん》の田舎者な事を御承知なのだから、万事間違のない様に奥様の言ふ事を聞けと繰返し教へて呉れた。
 真砂町のトある小路、右側に「小野」と記した軒燈の、点火《とも》り初めた許りの所へ行つて、
『此の家だ。』と源助は入口の格子をあけた。お定は遂ぞ覚えぬ不安に打たれた。

 源助は三十分許り経つて帰つて行つた。
 竹筒台の洋燈が明るい。茶棚やら箪笥やら、時計やら、箪笥の上の立派な鏡台やら、八畳の一室にありとある物は皆、お定に珍らしく立派なもので。黒柿の長火鉢の彼方《むかう》に、二寸も厚い座蒲団に坐つた奥様の年は二十五六、口が少しへ[#「へ」に傍点]の字になつて鼻先が下に曲つてるけれども、お定には唯立派な奥様に見えた。お定は洋燈の光に小さくなつて、石の如く坐つてゐた。
 銀行に出る人と許り聞いて来たのであるが、お定は銀行の何ものなるも知らぬ。其旦那様はまだお帰りにならぬといふ事で、五歳《いつつ》許りの、眼のキヨロ/\した男の児が、奥様の傍《わき》に横になつて、何やら絵のかいてある雑誌を見つゝ、時々不
前へ 次へ
全82ページ中65ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング