処さ行《え》げや?』と大工の妻は炉辺から声をかけたが、お八重は後も振向かずに、
『裏さ。』と答へた儘。戸を開けると、鶏が三羽、こツこツといひながら中に入つた。
二人は、裏畑の中の材木小屋に入つて、積み重ねた角材に凭《もた》れ乍ら、雨に湿つた新しい木の香を嗅いで、小一時間許りも密々《ひそひそ》語つてゐた。
お八重の話は、お定にとつて少しも思設けぬ事であつた。
『お定さん。お前も聞いたべす、源助さんから昨夜《ゆべな》、東京の話を。』
『聞いたす。』と穏かに言つて、お八重の顔を打瞶《うちまも》つたが、何故か「東京」の語《ことば》一つだけで、胸が遽《には》かに動悸がして来る様な気がした。
稍《やや》あつて、お八重は、源助さんと一緒に東京に行かぬかと言ひ出した。お定にとつては、無論思設けぬ相談ではあつたが、然し、盆過のがつかりした心に源助を見た娘には、必ずしも全然《まるで》縁のない話でもない。切《しき》りなしに騒ぎ出す胸に、両手を重ねながら、お定は大きい目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]つて、言葉少なにお八重の言ふ所を聞いた。
お八重は、もう自分一人は確然《ちやん》と決心して
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