くも病人不具者でない限り、男といふ男は一同|泊掛《とまりがけ》で東嶽《ひがしだけ》に萩刈に行くので、娘共の心が訳もなくがつかりして、一年中の無聊を感ずるのは此時である。それも例年ならば、収穫後《とりいれご》の嫁取婿取の噂に、嫉妬《やきもち》交りの話の種は尽きぬのであるけれども、今年の様に作が悪くては、田畑が生命《いのち》の百姓村の悲さに、これぞと気の立つ話もない。其処へ源助さんが来た。
 突然《いきなり》四年振で来たといふ噂に驚いた人達は、更に其源助さんの服装《みなり》の立派なのに二度驚かされて了つた。万《よろづ》の知識の単純な人達には何色とも呼びかねる、茶がかつた灰色の中折帽は、此村で村長様とお医者様と、白井の若旦那の外冠る人がない。絵甲斐絹《ゑかひき》の裏をつけた羽織も、袷も、縞ではあるが絹布物《やはらかもの》で、角帯も立派、時計も立派。中にもお定の目を聳《そばだ》たしめたのは、づつしりと重い総革の旅行鞄であつた。
 宿にしたのは、以前《もと》一番懇意にした大工の兼さんの家であつたが、其夜は誰彼の区別なく其|家《うち》を見舞つたので、奥の六畳間に三分心の洋燈《ランプ》は暗かつたが、入交り立交りする人の数は少くなく、潮《しほ》の様な虫の音も聞えぬ程、賑かな話声が、十一時過ぐるまでも戸外《そと》に洩れた。娘共は流石に、中には入りかねて、三四人店先に腰掛けてゐたが、其家の総領娘のお八重といふのが、座敷から時々出て来て、源助さんの話を低声《こごゑ》に取次した。
 源助さんは、もう四十位になつてゐるし、それに服装の立派なのが一際品格を上げて、挙動《ものごし》から話振から、昔よりは遙かに容体づいてゐた。随つて、其昔「お前《めえ》」とか「其方《そご》」とか呼び慣してゐた村の人達も、期せずして皆「お前様《めえさま》」と呼んだ。其夜の話では、源助は今度函館にゐる伯父が死んだのへ行つて来たので、汽車の帰途《かへり》の路すがら、奈何《どう》しても通抜《とほりぬけ》が出来なかつたから、突然ではあつたが、なつかしい此村を訪問したと云ふ事、今では東京に理髪店を開いてゐて、熟練《じゆくれん》な職人を四人も使つてるが、それでも手が足りぬ程|急《いそ》がしいといふ事であつた。
 此話が又、響を打つて直ぐに村中に伝はつた。
 理髪師といへば、余り上等な職業でない事は村の人達でも知つてゐる。然し東京の[#「東京の」に傍点]理髪師と云へば、怎《どう》やら少し意味が別なので、銀座通りの写真でも見た事のある人は、早速源助さんの家の立派な事を想像した。
 翌日《あくるひ》は、各々自分の家に訪ねて来るものと思つて、気早の老人《としより》などは、花茣蓙を押入から出して炉辺に布いて、渋茶を一掴み隣家《となり》から貰つて来た。が、源助さんは其日朝から白井様へ上つて、夕方まで出て来なかつた。
 其晩から、かの立派な鞄から出した、手拭やら半襟やらを持つて、源助さんは殆んど家毎に訪ねて歩いた。
 お定の家へ来たのは、三日目の晩で、昼には野良に出て皆留守だらうと思つたから、態々《わざわざ》後廻しにして夜に訪ねたとの事であつた。そして、二時間許りも麦煎餅を噛りながら、東京の繁華な話を聞かせて行つた。銀座通りの賑ひ、浅草の水族館、日比谷の公園、西郷の銅像、電車、自動車、宮様のお葬式《とむらひ》、話は皆想像もつかぬ事許りなので、聞く人は唯もう目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて、夜も昼もなく渦巻く火炎に包まれた様な、凄じい程な華やかさを漠然と頭脳《あたま》に描いて見るに過ぎなかつたが、浅草の観音様に鳩がゐると聞いた時、お定は其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》所にも鳥なぞがゐるか知らと、異様に感じた。そして、其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]所から此人はまあ、怎《どう》して此処まで来たのだらうと、源助さんの得意気な顔を打瞶《うちまも》つたのだ。それから源助さんは、東京は男にや職業が一寸|見付《みつか》り悪《にく》いけれど、女なら幾何《いくら》でも口がある。女中奉公しても月に賄《まかなひ》付で四円貰へるから、お定さんも一二年行つて見ないかと言つたが、お定は唯|俯《うつむ》いて微笑《ほほゑ》んだのみであつた。怎して私などが東京へ行かれよう、と胸の中で呟やいたのである。そして、今日|隣家《となり》の松太郎と云ふ若者《わかいもの》が、源助さんと一緒に東京に行きたいと言つた事を思出して、男ならばだけれども、と考へてゐた。

     三

 翌日《あくるひ》は、例《いつも》の様に水を汲んで来てから、朝草刈に行かうとしてると、秋の雨がしと/\降り出して来た。廐には未だ二日分許り秣《
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