》とお手紙にも其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》事があつたつて、新太郎が言つてましたがね。お前さん達、まあ遠い所をよくお出になつたことねえ。真《ほんと》に。』
『何卒《どうか》ハア……』と、二人は血を吐く思で漸く言つて、穏《おとな》しく頭を下げた。
『それにな、今度七日遊んでるうち、此方《こつち》の此お八重さんといふ人の家に厄介になつて来たんだよ。』
『おや然《さ》う。まあ甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》にか宅《うち》ぢや御世話様になりましたか。真《ほんと》に遠い所をよく入来《いらし》つた。まあ/\お二人共自分の家へ来た積りで、緩《ゆつく》り見物でもなさいましよ。』
お定は此時、些《ちつ》とも気が付かずに何もお土産を持つて来なかつたことを思つて、一人胸を痛めた。
お吉は小作りなキリリとした顔立の女で、二人の田舎娘には見た事もない程立居振舞が敏捷《すばしこ》い。黒繻子《くろじゆす》の半襟をかけた唐桟《たうざん》の袷を着てゐた。
二人は、それから名前や年齢やをお吉に訊かれたが、大抵源助が引取つて返事をして呉れた。負けぬ気のお八重さへも、何か喉に塞《つま》つた様で、一言も口へ出ぬ。況《ま》してお定は、以後先《これからさき》、怎して那※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《あんな》滑かな言葉を習つたもんだらうと、心細くなつて、お吉の顔が自分等の方に向くと、また何か問はれる事と気が気でない。
『阿父様《おとつつあん》、お帰んなさい。』と言つて、源助の一人息子の新太郎も入つて来た。二人にも挨拶して、六年許り前に一度お定らの村に行つた事があるところから、色々と話を出す。二人は再《また》之の応答に困らせられた。新太郎は六年前の面影が殆ど無く、今はもう二十四五の立派な男、父に似ず背が高くて、キリリと角帯を結んだ恰好の好さ、髪は綺麗に分けてゐて、鼻が高く、色だけは昔ながらに白い。
一体、源助は以前《もと》静岡在の生れであるが、新太郎が二歳《ふたつ》の年に飄然《ぶらり》と家出して、東京から仙台盛岡、其盛岡に居た時、恰《あたか》も白井家の親類な酒造家の隣家の理髪店《とこや》にゐたものだから、世話する人あつてお定らの村に行つてゐたので、父親に死なれて郷里《くに》に帰ると間もなく、目の見えぬ母とお吉と新太郎を連れて、些少《いささか》の家屋敷を売払ひ、東京に出たのであつた。其母親は去年の暮に死んで了つたので。
お茶も出された。二人が見た事もないお菓子も出された。
源助とお吉との会話が、今度死んだ函館の伯父の事、其葬式の事、後に残つた家族共の事に移ると、石の様に堅くなつてるので、お定が足に麻痺《しびれ》がきれて来て、膝頭が疼《うづ》く。泣きたくなるのを漸く辛抱して、凝《じつ》と畳の目を見てゐる辛さ。九時半頃になつて、漸々《やうやう》「疲れてゐるだらうから。」と、裏二階の六畳へ連れて行かれた。立つ時は足に感覚がなくなつてゐて、危く前に仆《のめ》らうとしたのを、これもフラフラしたお八重に抱きついて、互ひに辛さうな笑ひを洩らした。
風呂敷包を持つて裏二階に上ると、お吉は二人前の蒲団を運んで来て、手早く延べて呉れた。そして狭い床の間に些《ちよつ》と腰掛けて、三言四言お愛想を言つて降りて行つた。
二人|限《きり》になると、何れも吻《ほつ》と息を吐いて、今し方お吉の腰掛けた床の間に膝をすれ/\に腰掛けた。かくて十分許りの間、田舎言葉で密々《こそこそ》話し合つた。お土産を持つて来なかつた失策《てぬかり》は、お八重も矢張気がついてゐた。二人の話は、源助さんも親切だが、お吉も亦、気の隔《お》けぬ親切な人だといふ事に一致した。郷里の事は二人共何にも言はなかつた。
訝《をか》しい事には、此時お定の方が多く語つた事で、阿婆摺《あばずれ》と謂はれた程のお八重は、始終受身に許りなつて口寡《くちすくな》にのみ応答してゐた。枕についたが、二人とも仲々眠られぬ。さればといつて、別に話すでもなく、細めた洋燈の光に、互に顔を見ては穏《おとな》しく微笑《ほほゑみ》を交換してゐた。
八
翌朝《あくるあさ》は、枕辺の障子が白み初めた許りの時に、お定が先づ目を覚ました。嗚呼東京に来たのだつけ、と思ふと、昨晩の足の麻痺《しびれ》が思出される。で、膝頭を伸ばしたり曲《かが》めたりして見たが、もう何ともない。階下《した》ではまだ起きた気色《けはひ》がない。世の中が森と沈まり返つてゐて、腕車《くるま》の上から見た雑踏が、何処かへ消えて了つた様な気もする。不図、もう水汲に行かねばならぬと考へたが、否《いや》、此処は東京だつたと思
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