髪を結つて了ふまでに二里過ぎた。あとの三里は権作の無駄口と、二人が稚い時の追憶談《おもひでがたり》。

 理髪師《とこや》の源助さんは、四年振で突然村に来て、七日の間到る所に驩待《くわんたい》された。そして七日の間東京の繁華な話を繰返した。村の人達は異様な印象を享けて一同多少づゝ羨望の情を起した。もう四五日も居たなら、お八重お定と同じ志願を起す者が、三人も五人も出たかも知れぬ。源助さんは満腹の得意を以て、東京見物に来たら必ず自分の家《うち》に寄れといふ言葉を人毎に残して、七日目の午後に此村を辞した。好摩《かうま》のステイシヨンから四十分、盛岡に着くと、約の如く松本といふ宿屋に投じた。
 不取敢《とりあへず》湯に入つてると、お八重お定が訪ねて来た。一緒に晩餐を了へて、明日の朝は一番汽車だからといふので、其晩二人も其宿屋に泊る事にした。
 源助は、唯《たつた》一本の銚子に一時間も費《かか》りながら、東京へ行つてからの事――言葉を可成《なるべく》早く改めねばならぬとか、二人がまだ見た事のない電車への乗方とか、掏摸《すり》に気を付けねばならぬとか、種々《いろいろ》な事を詳《くど》く喋つて聞かして、九時頃に寝る事になつた。八畳間に寝具が三つ、二人は何れへ寝たものかと立つてゐると、源助は中央の床へ潜り込んで了つた。仕方がないので、二人は右と左に離れて寝たが、夜中になつてお定が一寸目を覚ました時は、細めて置いた筈の、自分の枕辺《まくらもと》の洋燈《らんぷ》が消えてゐて、源助の高い鼾《いびき》が、怎やら畳三畳許り彼方《むかう》に聞えてゐた。
 翌朝は二人共源助に呼起されて、髪を結ふも朝飯を食ふも※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]卒《そそくさ》に、五時発の上り一番汽車に乗つた。

     七

 途中で機関車に故障があつた為、三人を載《の》せた汽車が上野に着いた時は、其日の夜の七時過であつた。長い長いプラツトフオーム、潮《うしほ》の様な人、お八重もお定も唯小さくなつて源助の両袂に縋つた儘、漸々《やうやう》の思で改札口から吐出されると、何百輛とも数知れず列んだ腕車《くるま》、広場の彼方は昼を欺く満街《まんがい》の燈火《ともしび》、お定はもう之だけで気を失ふ位おツ魂消《たまげ》て了つた。
 腕車《くるま》が三輛、源助にお定にお八重といふ順で駆け出した。お定は生れて初めて腕車に乗つた。まだ見た事のない夢を見てゐる様な心地で、東京もなければ村もない、自分といふものも何処へ行つたやら、在るものは前の腕車に源助の後姿許り、唯|※[#「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2−12−81]乎《ぼんやり》として了つて、別に街々の賑ひを仔細に見るでもなかつた。燦爛《さんらん》たる火光《あかり》、千万の物音を合せた様な轟々たる都の響。其火光がお定を溶かして了ひさうだ。其響がお定を押潰して了ひさうだ。お定は唯もう膝の上に載せた萌黄の風呂敷包を、生命よりも大事に抱いて、胸の動悸を聴いてゐた。周囲《あたり》を数限りなき美しい人立派な人が通る様だ。高い/\家もあつた様た。
 少し暗い所へ来て、ホツと息を吐いた時は、腕車が恰度本郷四丁目から左に曲つて、菊坂町に入つた所であつた。お定は一寸振返つてお八重を見た。
 軈《やが》て腕車が止つて、『山田理髪店』と看板を出した明るい家の前。源助に促されて硝子戸の中に入ると、目が眩《くるめ》く程明るくて、壁に列んだ幾面の大鏡、洋燈《ランプ》が幾つも幾つもあつて、白い物を着た職人が幾人も幾人もゐる。何《ど》れが実際の人で何れが鏡の中の人なやら、見分もつかぬうちに、また源助に促されて、其店の片隅から畳を布いた所に上つた。
 上つたは可《い》いが、何処に坐れば可いのか一寸|周章《まごつい》て了つて、二人は暫し其所に立つてゐた。源助は、
『東京は流石に暑い。腕車《くるま》の上で汗が出たから喃《なあ》。』と言つて、突然《いきなり》羽織を脱いで投げようとすると、三十六七の小作りな内儀《おかみ》さんらしい人がそれを受取つた。
『怎だ、俺の留守中何も変りはなかつたかえ?』
『別に。』
 源助は、長火鉢の彼方《むかう》へドツカと胡坐《あぐら》をかいて、
『さあ/\、お前さん達もお坐んなさい。さあ、ずつと此方《こつち》へ。』
『さあ何卒《どうぞ》。』と内儀さんも言つて、不思議相に二人を見た。二人は人形の様に其処に坐つた。お八重が叩頭《おじぎ》をしたので、お定も遅れじと真似した。源助は、
『お吉や、この娘さん達はな、そら俺がよく話した南部の村の、以前|非常《えら》い事世話になつた家の娘さん達でな。今度是非東京へ出て一二年奉公して見たいといふので、一緒に出て来た次第だがね。これは俺の嬶ですよ。』と二人を見る。
『まあ然うですか。些《ちよつ
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