相に胸に抱いて、仍且《やはり》郷里《くに》の事を思ひながら主家に帰つた。勝手口から入ると、奥様が見えぬ。お定は密《こつそ》りと玉菜を出して、膝の上に載せた儘、暫時《しばし》は飽かずも其香を嗅いでゐた。
『何してるだらう、お定は?』と、直ぐ背後《うしろ》から声をかけられた時の不愍《ふびん》さ!
朝餐後《あさめしご》の始末を兎に角に終つて、旦那様のお出懸に知らぬ振をして出て来なかつたと奥様に小言を言はれたお定は、午前十時頃、何を考へるでもなく呆然《ぼんやり》と、台所の中央《まんなか》に立つてゐた。
と、他所行《よそゆき》の衣服を着たお吉が勝手口から入つて来たので、お定は懐かしさに我を忘れて、『やあ』と声を出した。お吉は些《ちよつ》と笑顔を作つたが、
『まあ大変な事になつたよ、お定さん。』
『怎したべす?』
『怎したも恁うしたも、お郷里《くに》からお前さん達の迎へが来たよ。』
『迎へがすか?』と驚いたお定の顔には、お吉の想像して来たと反対《うらはら》に、何ともいへぬ嬉しさが輝いた。
お吉は暫時呆れた様にお定の顔を見てゐたが、
『奥様は被居《いらつ》しやるだらう、お定さん。』
お定は頷いて障子の彼方を指した。
『奥様にお話して、これから直ぐお前さんを伴れてかなけやならないのさ。』
お吉は、お定に取次を頼むも面倒といつた様に、自分で障子に手をかけて、『御免下さいまし。』と言つた儘、中に入つて行つた。お定は台所に立つたなり、右手を胸にあてて奥様とお吉の話を洩れ聞いてゐた。
お吉の言ふ所では、迎への人が今朝着いたといふ事で、昨日上げた許りなのに誠に申訳がないけれど、これから直ぐお定を帰してやつて呉れと、言葉滑らかに願つてゐた。
『それはもう、然ういふ事情なれば、此方で置きたいと言つたつて仕様がない事だし、伴れて帰つても構ひませんけど、』と奥様は言つて『だけどね、漸《やうや》つと昨晩来た許りで、まだ一昼夜にも成らないぢやないかねえ。』
『其処ン所は何ともお申訳がございませんのですが、何分手前共でも迎への人が来ようなどとは、些《ちつ》とも思懸けませんでしたので。』
『それはまあ仕方がありませんさ。だが、郷里《くに》といつても随分遠い所でせう?』
『ええ、ええ、それはもう遙《ずつ》と遠方で、南部の鉄瓶を拵へる所よりも、まだ余程田舎なさうでございます。』
『其※[#「麾」の
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