頤《あご》を襟に埋めて俯いてゐるお定は、郷里を逃げ出して以來の事を、それからそれと胸に數へてゐた。お定の胸に刻みつけられた東京は、源助の家と、本郷館の前の人波と、八百屋の店と、へ[#「へ」に傍点]の字口の鼻先が下向いた奧樣とである。この四つが、目眩《めまぐ》ろしい火光《あかり》と轟々たる物音に、遠くから包まれて、ハッと明るい。お定が一生の間、東京といふ言葉を聞く毎に、一人胸の中に思出す景色は、恐らく此四つに過ぎぬであらう。
軈てお定は、懷手した左の指を少し許り襟から現して、柔かい己が頬を密《そつ》と撫《な》でて見た。小野の家で着て寢た蒲團の、天鵞絨の襟を思出したので。
瞬く間、窓の外が明るくなつたと思ふと、汽車は、とある森の中の小さい驛を通過《パツス》した。お定は此時、丑之助の右の耳朶《みゝたぶ》の、大きい黒子《ほくろ》を思出したのである。
新太郎と共に、三人を上野まで送つて呉れたお吉は、さぞ今頃、此間中は詰らぬ物入《ものいり》をしたと、寢物語に源助にこぼしてゐる事であらう。
底本:「石川啄木作品集 第二巻」昭和出版社
1970(昭和45)年11月20日発行
※底本の疑問点の確認にあたっては、「啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房、1967(昭和42)年7月30日初版第1刷発行を参照しました。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2003年3月20日作成
青空文庫ファイル:
このファイルはインターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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