を赤くしながら、
『これでごあんすか?』と奧樣の顏を見た。バケツといふ物は見た事がないので。
『然うとも。それがバケツでなくて何ですよ。』と稍御機嫌が惡い。
お定は、怎※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]物に水を汲むのだもの、俺には解る筈がないと考へた。
此家では、『水道』が流場の隅にあつた。
長火鉢の鐵瓶の水を代へたり、方々雜布を掛けさせられたりしてから、お定は小路を出て一町程行つた所の八百屋に使ひに遣られた。奧樣は葱とキヤベーヂを一個買つて來いといふのであつたが、キヤベーヂとは何の事か解らぬ。で、恐る/\聞いて見ると、『それ恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》ので(と兩手で圓を作つて)白い葉が堅く重なつてるのさ。お前の郷里《くに》にや無いのかえ。』と言はれた。でお定は、
『ハア、玉菜でごあんすか。』と言ふと、
『名は怎《どう》でも可《い》いから早く買つて來なよ。』と急《せ》き立てられる。お定はまた顏を染めて戸外へ出た。
八百屋の店には、朝市へ買出しに行つた車がまだ歸つて來ないので、昨日の賣殘りが四種五種列べてあるに過ぎなかつたが、然しお定は、其前に立つと、妙な心地になつた。何とやらいふ菜に茄子が十許り、脹切《はちき》れさうによく出來た玉菜《キャベーヂ》が五個六個《いつゝむつゝ》、それだけではあるけれ共、野良育ちのお定には此上なく慕かしい野菜の香が、仄かに胸を爽《さわや》かにする。お定は、露を帶びた裏畑を頭に描き出した。ああ、あの紫色の茄子の畝《うね》! 這ひ蔓《はびこ》つた葉に地面を隱した瓜畑! 水の樣な曉の光に風も立たず、一夜さを鳴き細つた蟲の聲!
萎びた黒繻子の帶を、ダラシなく尻に垂れた内儀《おかみ》に、『入來《いらつ》しやい。』と聲をかけられたお定は、もうキヤベーヂといふ語を忘れてゐたので、唯『それを』と指さした。葱は生憎《あひにく》一把もなかつた。
風呂敷に包んだ玉菜一個を、お定は大事相に胸に抱いて、仍且《やはり》郷里《くに》の事を思ひながら主家に歸つた。勝手口から入ると、奧樣が見えぬ。お定は密《こつそ》りと玉菜を出して、膝の上に載せた儘、暫時《しばし》は飽かずも其香を嗅いでゐた。
『何してるだらう、お定は?』と、直ぐ背後《うしろ》から聲をかけられた時の不愍《きまりわる》さ!
朝餐後の始末を兎に角終つて、旦那樣のお出懸に知らぬ振をして出て來なかつたと奧樣に小言を言はれたお定は、午前十時頃、何を考へるでもなく呆然《ぼんやり》と、臺所の中央《まんなか》に立つてゐた。
と、他所行の衣服を着たお吉が勝手口から入つて來たので、お定は懷かしさに我を忘れて、『やあ』と聲を出した。お吉は些《ちよつ》と笑顏を作つたが、
『まあ大變な事になつたよ、お定さん。』
『怎《どう》したべす?』
『怎したも恁うしたも、お郷里《くに》からお前さん達の迎へが來たよ。』
『迎へがすか?』と驚いたお定の顏には、お吉の想像して來たと反對に、何ともいへぬ嬉しさが輝いた。
お吉は暫時《しばらく》呆れた樣にお定の顏を見てゐたが、『奧樣は被居《いらつ》しやるだらう、お定さん。』
お定は頷《うなづ》いて障子の彼方を指した。
『奧樣にお話して、これから直ぐお前さんを伴《つ》れてかなけやならないのさ。』
お吉は、お定に取次を頼むも面倒といつた樣に、自分で障子に手をかけて、『御免下さいまし。』と言つた儘、中に入つて行つた。お定は臺所に立つたり、右手を胸にあてて奧樣とお吉の話を洩れ聞いてゐた。
お吉の言ふ所では、迎への人が今朝着いたといふ事で、昨日上げた許りなのに誠に申譯がないけれど、これから直ぐお定を歸してやつて呉れと、言葉|滑《なめ》らかに願つてゐた。
『それはもう、然《さ》ういふ事情なれば、此方で置きたいと言つたつて仕樣がない事だし、伴れて歸つても構ひませんけれど、』と奧樣は言つて、『だけどね、漸《や》つと昨晩《ゆうべ》來た許りで、まだ一晝夜にも成らないぢやないかねえ。』
『其處ン所は何ともお申譯がございませんのですが、何分手前共でも迎への人が來ようなどとは、些《ちつ》とも思懸けませんでしたので。』
『それはまあ仕方がありませんさ。だが、郷里《くに》といつても隨分遠い所でせう?』
『ええ、ええ、それはもう遙《ずつ》と遠方で、南部の鐵瓶を拵へる處よりも、まだ餘程田舍なさうでございます。』
『其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》處からまあ、よくねえ。』と言つて、『お定や、お定や。』
お定は、怎《どう》やら奧樣に濟まぬ樣な氣がするので、怖る怖る行つて坐ると、お前も聞いた樣な事情だから、まだ一晝夜にも成らぬのにお前も本意《ほんい》ないだらうけれども、この内儀《おかみ》さんと一緒に歸つたら可《よ》からうと言ふ奧樣の話で、お定は唯顏を赤くして堅くなつて聞いてゐたが、軈てお吉に促されて、言葉寡《ことばすくな》に禮を述べて其家を出た。
戸外《おもて》へ出ると、お定は直ぐ、
『甚※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《どんな》人だべ、お内儀《かみ》さん!』と訊いた。
『いけ好かない奧樣だね。』と言つたが、『迎への人かえ? 何とか言つたけ、それ、忠吉さんとか忠次郎さんとかいふ、禿頭《はげあたま》の腹の大《でつ》かい人だよ。』
『忠太ツて言ふべす、そだら。』
『然《さ》う/\其忠太さんさ。面白い言葉な人だねえ。』と言つたが、『來なくても可いのに、お前さん達許り詰らないやね、態々《わざ/\》出て來て直ぐ伴れて歸られるなんか。』
『眞《ほん》に然《さ》うでごあんす。』と、お定は口を噤んで了つた。
稍あつてから又、『お八重さんは怎《どう》したべす?』と訊いた。
『お八重さんには新太郎が迎ひに行つたのさ。』
源助の家へ歸ると、お八重はまだ歸つてゐなかつたが、腰までしか無い短い羽織を着た、布袋の樣に肥つた忠太爺が、長火鉢に源助と向合つてゐて、お定を見るや否や、突然《いきなり》、
『七日八日見ねえでる間《うち》に、お定ツ子ア遙《ぐつ》と美《え》え女子《をなご》になつた喃《なあ》。』と四邊《あたり》構はず高い聲で笑つた。
お定は路々、郷里から迎ひが來たといふのが嬉しい樣な、また、其人が自分の嫌ひな忠太と訊いて不滿な樣な心地もしてゐたのであるが、生れてから十九の今まで毎日々々慣れた郷里言葉《くにことば》を其儘に聞くと、もう胸の底には不滿も何も消えて了つた。
で、忠太は先ず、二人が東京へ逃げたと知れた時に、村では兩親初め甚※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《どんな》に驚かされたかを語つた。源助さんの世話になつてるなれば心配はない樣なものの、親心といふものは又別なもの、自分も今は忙がしい盛りだけれど、強《たつ》ての頼みを辭《こば》み難く、態々《わざ/\》迎ひに來たと語るのであつたが、然し一言もお定に對して小言がましい事は言はなかつた。何故なれば忠太は其實、矢張源助の話を聞いて以來、死ぬまでに是非共一度は東京見物に行きたいものと、家には働手が多勢ゐて自分は閑人なところから、毎日考へてゐた所へ、幸ひと二人の問題が起つたので、構はずにや置かれぬから何なら自分が行つて呉れても可いと、不取敢氣の小さい兼大工を説き落し、兼と二人でお定の家へ行つて、同じ事を遠※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]しに諄々《くどくど》と喋り立てたのであるが、母親は流石に涙顏をしてゐたけれども、定次郎は別に娘の行末を悲觀してはゐなかつた。それを漸々《やう/\》納得《なつとく》させて、二人の歸りの汽車賃と、自分のは片道だけで可いといふので、兼から七圓に定次郎から五圓、先づ體の可い官費旅行の東京見物を企てたのであつた。
軈てお八重も新太郎に伴れられて歸つて來たが、坐るや否や先づ險《けは》しい眼尻を一層險しくして、凝《ぢつ》と忠太の顏を睨むのであつた。忠太は、お定に言つたと同じ樣な事を、繰返してお八重にも語つたが、お八重は返事も碌々《ろく/\》せず、脹《ふく》れた顏をしてゐた。
源助の忠太に對する驩待振《くわんたいぶり》は、二人が驚く許り奢《おご》つたものであつた。無論これは、村の人達に傳へて貰ひたい許りに、少しは無理までして外見《みえ》を飾つたのであるが。
其夜は、裏二階の六疊に忠太とお八重お定の三人枕を並べて寢せられたが、三人|限《きり》になると、お八重は直ぐ忠太の膝をつねりながら、
『何しや來たす此人《このふと》ア。』と言つて、執念《しつこ》くも自分等の新運命を頓挫させた罪を詰《なぢ》るのであつたが、晩酌に陶然とした忠太は、間もなく高い鼾をかいて、太平の眠に入つて了つた。するとお八重は、お定の温しくしてるのを捉へて、自分の行つた横山樣が、何とかいふ學校の先生をして、四十圓も月給をとる學士樣な事や、其奧樣の着てゐた衣服の事、自分を大層可愛がつてくれた事、それからそれと仰々しく述べ立てて、今度は仕方がないから歸るけれど、必ず又自分だけは東京に來ると語つた。そしてお八重は、其奧樣のお好みで結はせられたと言つて、生れて初めての庇髮に結つてゐて、奧樣から拜領の、少し油染みた焦橄欖《こげおりいぶ》のリボンを大事相に挿《さ》してゐた。
お八重は又自分を迎ひに來て呉れた時の新太郎の事を語つて、『那※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《あんな》親切な人ア家《え》の方にや無《ね》えす。』と讃めた。
お定はお八重の言ふが儘に、唯温しく返事をしてゐた。
その後二三日は、新太郎の案内で、忠太の東京見物に費された。お八重お定の二人も、もう仲々來られぬだらうから、よく見て行けと言ふので、毎日其お伴をした。
二人は又、お吉に伴れられて行つて、本郷館で些少な土産物をも買ひ整へた。
一一
お八重お定の二人が、郷里を出て十二日目の夕、忠太に伴れられて、上野のステイションから歸郷の途に就いた。
貫通車の三等室、東京以北の總有《あらゆる》國々の訛《なまり》を語る人々を、ぎつしりと詰めた中に、二人は相並んで、布袋の樣な腹をした忠太と向合つてゐた。長い/\プラットフォームに數限りなき掲燈《あかり》が晝の如く輝き初めた時、三人を乘せた列車が緩《ゆる》やかに動き出して、秋の夜の暗を北に一路、刻一刻東京を遠ざかつて行く。
お八重はいふ迄もなく、お定さへも此時は妙に淋しく名殘惜しくなつて、密々《こそ/\》と其事を語り合つてゐた。此日は二人共庇髮に結つてゐたが、お定の頭にはリボンが無かつた。
忠太は、棚の上の荷物を氣にして、時々其を見上げ見上げしながら、物珍し相に乘合の人々を、しげしげと見比べてゐたが、一時間許り經《た》つと少し身體を屈めて、
『尻《けつ》ア痛くなつて來た。』と呟やいた。『汝《うな》ア痛くねえが?』
『痛くねえす。』とお定は囁いたが、それでも忠太がまだ何か話欲しさうに屈《かゞ》んでるので、
『家《え》の方でヤ玉菜だの何ア大きくなつたべなす。』
『大きくなつたどもせえ。』と言つた忠太の聲が大きかつたので、周圍《あたり》の人は皆此方を見る。
『汝《うな》ア共ア逃げでがら、まだ二十日にも成んめえな。』
お定は顏を赤くしてチラと周圍を見たが、その儘返事もせず俯《うつむ》いて了つた。お八重は顏を蹙《しか》めて、忌々し氣に忠太を横目で見てゐた。
十時頃になると、車中の人は大抵こくり/\と居睡《ゐねむり》を始めた。忠太は思ふ樣腹を前に出して、グッと背後《うしろ》に凭《もた》れながら、口を開けて、時々鼾《いびき》をかいてゐる。お八重は身體を捻つて背中合せに腰掛けた商人體の若い男と、頭を押|接《つ》けた儘、眠つたのか眠らぬのか、凝《ぢつ》としてゐる。
窓の外は、機關車に惡い石炭を焚くので、雨の樣な火の子が横樣に、暗を縫うて後ろに飛ぶ。懷手をして圓い
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