きてゐない。遠近《をちこち》で二番鷄が勇ましく時をつくる。けたゝましい羽搏《はばた》きの音がする。
 お定はすぐ起きて、寢室《ねま》にしてゐる四疊半許りの板敷を出た。手探りに草履《ざうり》を突《つゝ》かけて、表裏の入口を開けると、厩では乾秣《やた》を欲《ほ》しがる馬の、破目板を蹴《け》る音がゴトゴトと鳴る。大桶を二つ擔《かつ》いで、お定は村端《むらはづれ》の樋の口といふ水汲場に行つた。
 例になく早いので、まだ誰も來てゐなかつた。漣《さゞなみ》一つ立たぬ水槽の底には、消えかゝる星を四つ五つ鏤《ちりば》めた黎明の空が深く沈んでゐた。清冽な秋の曉の氣が、いと冷かに襟元から總身に沁む。叢にはまだ夢の樣に蟲の音がしてゐる。
 お定は暫時《しばし》水を汲むでもなく、水鏡に寫つた我が顏を瞶《みつ》めながら、呆然《ぼんやり》と昨晩の《ゆうべ》の事を思出してゐた。東京といふ所は、ずつと/\遠い所になつて了つて、自分が怎《どう》して其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》所まで行く氣になつたらうと怪まれる。矢張自分は此村に生れたのだから、此村で一生暮らす方が本
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