さいましよ。』
 お定は此時、些《ちつ》とも氣が附かずに何もお土産を持つて來なかつたことを思つて、一人胸を痛めた。
 お吉は小作りなキリリとした顏立の女で、二人の田舍娘には見た事もない程立居振舞が敏捷《すばしこ》い。黒繻子の半襟をかけた唐棧《たうざん》の袷を着てゐた。
 二人は、それから名前や年齡《とし》やをお吉に訊《き》かれたが、大抵源助が引取つて返事をして呉れた。負けぬ氣のお八重さへも、何か喉《のど》に塞《つま》つた樣で、一言も口へ出ぬ。況《ま》してお定は、これから、怎《どう》して那※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《あんな》滑《なめら》かな言葉を習つたもんだらうと、心細くなつて、お吉の顏が自分等の方に向くと、また何か問はれる事と氣が氣でない。
『阿父樣《おとつつあん》、お歸んなさい。』と言つて、源助の一人息子の新太郎も入つて來た。二人にも挨拶して、六年許り前に一度お定らの村に行つた事があるところから、色々と話を出す。二人は又之の應答《うけこたへ》に困らせられた。新太郎は六年前の面影が殆ど無く、今はもう二十四五の立派な男、父に似ず背が高くて、キリリと角帶を結んだ恰好の好さ。髮は綺麗に分けてゐて、鼻が高く、色だけは昔ながらに白い。
 一體、源助は以前靜岡在の生れであるが、新太郎が二歳《ふたつ》の年に飄然《ぶらり》と家出して、東京から仙臺盛岡、其盛岡に居た時、恰も白井家の親類な酒造家の隣家の理髮店《とこや》にゐたものだから、世話する人あつてお定らの村に行つてゐたので、父親に死なれて郷里に歸ると間もなく、目の見えぬ母とお吉と新太郎を連れて、些少《いささか》の家屋敷を賣拂ひ、東京に出たのであつた。其母親は去年の暮に死んで了つたので。
 お茶も出された。二人が見た事もないお菓子も出された。
 源助とお吉との會話が、今度死んだ凾館の伯父の事、其葬式の事、後に殘つた家族共の事に移ると、石の樣に堅くなつてるので、お定が足に痲痺《しびれ》がきれて來て、膝頭《ひざがしら》が疼《うづ》く。泣きたくなるのを漸く辛抱して、凝《ぢつ》と疊の目を見てゐる辛さ。九時半頃になつて、漸々《やう/\》『疲れてゐるだらうから』と、裏二階の六疊へ連れて行かれた。立つ時は足に感覺がなくなつてゐて、危く前に仆《のめ》らうとしたのを、これもフラフラしたお八重に抱きついて、互ひに辛さうな笑ひを洩らした。
 風呂敷包を持つて裏二階に上ると、お吉は二人前の蒲團を運んで來て、手早く延べて呉れた。そして狹い床の間に些《ちよつ》[#ルビの「ちよつ」は底本では「ちよ」]と腰掛けて、三言四言お愛想を言つて降りて行つた。
 二人限《きり》になると、何れも吻《ほつ》と息を吐いて、今し方お吉の腰掛けた床の間に膝をすれ/\に腰掛けた。かくて十分許りの間、田舍言葉で密々《こそ/\》話合つた。お土産を持つて來なかつた失策《しくじり》は、お八重も矢張氣がついてゐた。二人の話は、源助さんも親切だが、お吉も亦、氣の隔《お》けぬ親切な人だといふ事に一致した。郷里《くに》の事は二人共何にも言はなかつた。
 訝《をか》しい事には、此時お定の方が多く語つた事で、阿婆摺《あばづれ》と謂はれた程のお八重は、始終《しよつちゆう》受身に許りなつて口寡《くちすくな》にのみ應答《うけこたへ》してゐた。枕についたが、二人とも仲々眠られぬ。さればといつて、別に話すでもなく、細めた洋燈《ランプ》の光に、互ひの顏を見ては温《をとな》しく微笑《ほゝゑみ》を交換《かは》してゐた。

      八

 翌朝は、枕邊の障子が白み初めた許りの時に、お定が先づ目を覺ました。嗚呼東京に來たのだつけと思ふと、昨晩《ゆうべ》の足の麻痺《しびれ》が思出される。で、膝頭を伸ばしたり屈《かゞ》めたりして見たが、もう何ともない。階下《した》ではまだ起きた氣色《けはひ》がない。世の中が森と沈まり返つてゐて、腕車《くるま》の上から見た雜沓が、何處かへ消えて了つた樣な氣もする。不圖、もう水汲に行かねばならぬと考へたが、否、此處は東京だつたと思つて幽かに笑つた。それから二三分の間は、東京ぢや怎《どう》して水を汲むだらうと云ふ樣な事を考へてゐたが、お八重が寢返りをして此方へ顏を向けた。何夢を見てゐるのか、眉と眉の間に皺寄せて苦し相に息をする。お定はそれを見ると直ぐ起き出して、聲低くお八重を呼び起した。
 お八重は、深く息を吸つて、パッチリと目を開けて、お定の顏を怪訝相《けげんさう》にみてゐたが、
『ア、家《え》に居《え》だのでヤなかつたけな。』と言つて、ムクリと身起した。それでもまだ得心がいかぬといつた樣に周圍《あたり》を見※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]してゐたが、
『お定さん、俺《おれ》ア今夢見て居《え》
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