當だ。恁《か》うして毎朝水汲に來るのが何より樂しい。話の樣な繁華な所だつたら、屹度《きつと》恁《か》ういふ澄んだ美しい水などが見られぬだらうなどゝ考へた。と、後に人の足音がするので、振向くと、それはお八重であつた。矢張桶をぶらぶら擔いで來るが、寢くたれ髮のしどけなさ、起きた許りで脹《はれ》ぼつたくなつてゐる瞼《ひとみ》さへ、殊更艶かしく見える。あの人が行くのだもの、といふ考へが、呆然《ぼんやり》とした頭をハッと明るくした。
『お八重さん、早《はや》えなツす。』
『お前《めえ》こそ早えなツす。』と言つて、桶を地面《ぢべた》に下した。
『あゝ、まだ蟲ア啼いてる!』とお八重《やへ》は少し顏[#底本では「顏《ゆが》」]を歪《ゆが》めて、後れ毛を掻上げる。遠く近くで戸を開ける音が聞える。
『決《き》めたす、お八重さん。』
『決めたすか?』と言つたお八重の眼は、急に晴々しく輝いた。『若しもお前行かなかつたら、俺《おら》一人|奈何《どう》すべと思つてだつけす。』
『だつてお前|怎《どう》しても行くべえす?』
『お前も決《き》めたら、一緒に行くのす。』と言つて、お八重は輕く笑つたが、『そだつけ、大變だお定さん、急がねえばならねえす。』
『怎《どう》してす?』
『怎してつて、昨晩《ゆべな》聞いだら、源助さん明後日《あさつて》立つで、早く準備《したく》せツてゐだす。』
『明後日《あさつて》?』と、お定は目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。
『明後日!』と、お八重も目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。
二人は暫し互ひの顏を打瞶つてゐたが、『でヤ、明日《あした》盛岡さ行がねばならねえな。』とお定が先づ我に歸つた。
『然《さ》うだす。そして今夜《こんにや》のうちに、衣服《きもの》だの何《なに》包んで、權作|老爺《おやぢ》さ頼まねばならねえす。』
『だらハア、今夜《こんにや》すか?』と、お定は又目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。
左《さ》う右《か》うしてるうちに、一人二人と他の水汲が集つて來たので、二人はまだ何か密々《ひそ/\》と語り合つてゐたが、軈て滿々《なみ/\》と水を汲んで擔ぎ上げた。そして、すぐ二三軒先の權作が家へ行つて、
『老爺《おやぢ》ア起きたすか?』と、表から聲をかけた。
『何時まで寢てるべえせア。』と、中から胴間聲《どまごゑ》がする。
二人は目を見合して、ニッコリ笑つたが、桶を下して入つて行つた。馬車|追《ひき》の老爺は丁度厩の前で乾秣《やた》を刻むところであつた。
『明日《あした》盛岡さ行ぐすか?』
『明日がえ? 行くどもせア。權作ア此|老年《とし》になるだが、馬車|曳《ふ》つぱらねえでヤ、腹減つて斃死《くたば》るだあよ。』
『だら、少許《すこし》持つてつて貰ひてえ物が有るがな。』
『何程《なんぼ》でも可えだ。明日ア歸《けえ》り荷《に》だで、行ぐ時《どき》ア空馬車|曳《ふ》つぱつて行ぐのだもの。』
『其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》に澤山《たんと》でも無えす。俺等《おら》も明日《あした》盛岡さ行ぐども、手さ持つてげば邪魔だです。』
『そんだら、ハア、お前達も馬車さ乘つてつたら可《え》がべせア。』
二人は又目を見合して、二言三言|喋《しめ》し合つてゐたが、
『でア老爺《おやぢ》な、俺等《おら》も乘せでつて貰ふす。』
『然《さ》うして御座《ごぜ》え。唯、巣子《すご》の掛茶屋さ行つたら、盛切酒《もつきりざけ》一|杯《ぺえ》買ふだアぜ。』
『買ふともす。』と、お八重は晴やかに笑つた。
『お定ッ子も行《え》ぐのがえ?』
お定は一寸|狼狽《うろた》へてお八重の顏を見た。お八重は又笑つて、『一人だば淋しだで、お定さんにも行つて貰ふべがと思つてす。』
『ハア、俺ア老人《としより》だで可えが、黒馬《あを》の奴ア怠屈《てえくつ》しねえで喜ぶでヤ。だら、明日《あした》ア早く來て御座《ごぜ》え。』
此日は、二人にとつて此上もない忙がしい日であつた。お定は水汲から歸ると直ぐ朝草刈に平田野《へいたの》へ行つたが、莫迦に氣がそは/\して、朝露に濡れた利鎌《とがま》が、兎角休み勝になる。離れ/″\の松の樹が、山の端に登つた許りの朝日に、長い影を草の上に投げて、葉毎に珠を綴つた無數の露の美しさ。秋草の香が初簟《はつたけ》の香を交へて、深くも胸の底に沁みる。利鎌の動く毎に、サッサッと音して寢る草には、萎枯《すが》れた桔梗の花もあつた。お定は胸に往來する取留もなき思ひに、黒味勝の眼が曇つたり晴れたり、一背負だけ刈るに、例《いつも》より餘程長くかかつた。
朝草を刈つて來てから、馬の手入を濟ませて、朝餉を了へたが、十坪許り刈り殘してある山
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