業となつてからは、其店《そこ》の大きい姿見が、村中の子供等の好奇心を刺戟したもので、お定もよく同年輩の遊び仲間と一緒に行つて、見た事もない白い瀬戸の把手《ハンドル》を上に捻《ひね》り下に捻り、辛《やつ》と少許《すこし》入口の扉を開けては、種々な道具の整然と列べられた室の中を覗いたものだ。少し開けた扉が、誰の力ともなく、何時《いつ》の間にか身體の通るだけ開くと、田舍の子供といふものは因循なもので、盜みでもする樣に怖《おつか》な怯《びつく》り、二寸三寸と物も言はず中に入つて行つて、交代《かはりがはり》に其姿見を覗く。訝《をかし》な事には、少し離れて寫すと、顏が長くなつたり、扁《ひらた》くなつたり、目も鼻も歪《ゆが》んで見えるのであつたが、お定は幼《おさな》心に、これは鏡が餘り大き過ぎるからだと考へてゐたものだ。
 月に三度の一の日を除いては、(此日には源助さんが白井樣へ上つて、お家中の人の髮を刈つたり顔を剃つたりするので、)大抵村の人が三人四人、源助さんの許《とこ》で莨を喫《ふか》しながら世間話をしてゐぬ事はなかつた。一年程|經《た》つてから、白井樣の番頭を勤めてゐた人の息子で、薄野呂なところからノロ勘と綽名《あだな》された、十六の勘之助といふのが、源助さんに弟子入をした。それからといふものは、今迄近づき兼ねてゐた子供等まで、理髮店の店を遊場にして、暇な時にはよく太閤記や、義經や蒸汽船や加藤清正の譚を聞かして貰つたものだ。源助さんが居ない時には、ノロ勘が錢函から銅貨を盜み出して、子供等に餡麺麭を振舞ふ事もあつた。振舞ふといつても、其實半分以上はノロ勘自身の口に入るので。
 源助さんは村中での面白い人として、衆人《みんな》に調法がられたものである。春秋《はるあき》の彼岸《ひがん》にはお寺よりも此人の家の方が、餅を澤山貰ふといふ事で、其代り又、何處の婚禮にも葬式にも、此人の招《よ》ばれて行かぬ事はなかつた。源助さんは、啻《たゞ》に話巧者で愛想が好い許りでなく、葬式に行けば青や赤や金の紙で花を拵へて呉れるし、婚禮の時は村の人の誰も知らぬ「高砂」の謠をやる、加之《のみならず》何事にも器用な人で、割烹の心得もあれば、植木|弄《いじ》りも好き、義太夫と接木が巧者で、或時は白井樣の子供衆のために大奉八枚張の大|紙鳶《だこ》を拵《こしら》へた事もあつた。其處此處の夫婦喧嘩や親子喧嘩に仲
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