先に帰つて来るので、父の仕事場にしてある店先の板間に、竹屑やら鉋屑《かんなくづ》の中に腹匍《はらばひ》になつては、汗を流しながら読本を復習《さらつ》たり、手習をしたりしたものだ。そして又、目的もなく軒下の日陰に立つて、時々藤野さんの姿の見えるのを待つてゐたものだ。
すると大変な事が起つた。
八月一杯の休暇、其中旬頃とも下旬頃とも解らぬが、それは/\暑い日で、空には雲一片なく、脳天を焙《あぶ》りつける太陽が宛然《まるで》火の様で、習《そよ》との風も吹かぬから、木といふ木は皆死にかかつた様に其葉を垂れてゐた。家々の前の狭い溝には、流れるでもない汚水の上に、薄曇つた泡が数限りなく腐つた泥から湧いてゐて、日に晒された幅広い道路の礫《こいし》は足を焼く程暖く、蒸された土の温気が目も眩《くら》む許り胸を催嘔《むかつか》せた。
村の後ろは広い草原になつてゐて、草原が尽きれば何十町歩の青田、それは皆近江屋の所有地であつたが、其青田に灌漑する、三間許りの野川が、草原の中を貫いて流れてゐた。野川の岸には、近江屋が年中米を搗かせてゐる水車小屋が立つてゐた。
春は壺菫に秋は桔梗《ききやう》女郎花《をみ
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